柿の木と手水石
絵踏みの苛責を黙然として見ていた | ||||||
明治6年「旅」から帰った浦上の信徒たちは、明治12年(1879年)土井に最初の仮聖堂「サンジュアン・バブチスタ小聖堂」を設けた。しかし、土井の御堂は200人位しか収容できないため、何とかして大浦天主堂に劣らぬ大聖堂を建立したいものだと、信者も宣教師も念願していると、意外にも無双の好敷地が手に入ることになった。それは庄屋、高谷家の屋敷である。
この敷地は、村の中央高燥絶勝の地で、キリシタンを召捕り宗門改めの責苦が行われ、毎年正月には村民を召出して、「コンチリサンのオラショ」(痛悔の祈)をとなえながら心ならずも絵踏みをした忘れられない場所である。明治2年総流配の際にも村民をかり集め、それぞれに流配を申し渡したのもここであった。
浦上の信徒たちは、何とかしてこの絶好の敷地を手に入れようと油断なく運動し、ついに明治13年(1880年)6月4日、わが主聖心の祝日に売買契約の調印を終った。価格は僅か1600円であった。 そして7月7日、日本205人殉教者の祝日から、その家の修築に着手して仮聖堂に直し、8月15日聖母被昇天の祝日に初ミサが行われた。信者たちの喜びが察せられる。 この仮聖堂は本聖堂建設のため、1902年(明治35年)に聖堂裏手の東側に移築され、本聖堂完成の1915年(大正4年)まで仮聖堂として用い続けた。その後は教理教室として使用していたが、原爆で焼失した。
完成した天主堂の正面右側に木ねりの柿の木が一本立ち、傍らに大きな自然石があった。ここが昔の庄屋屋敷の玄関跡で、この木に私たちの父祖は、しばりつけられ、宗門吟味の苛責をうけた。この右は庄屋の手水石で、この苛責を黙然として見ていたのだという。 原爆で倒壊した天主堂の右側にあった柿の木は焼失してしまった。昭和21年8月から各地区巡回聖体拝領を復活させるため、青年たちは焼け跡からこの柿の木の根っこを掘り出して「巡回聖体拝領の十字架」を作り、各地区を毎週巡回して全てが拝領するように促した。この十字架は現在も毎日曜日、各地区典礼当番のバトンとして使われている。 「神の家族400年」より抜粋 |