12.平和の建設

 浦上を廃墟と化した原爆は敗戦のきめてとなり、15年戦争はようやく終戦となった。原爆被災後の物的苦労と食糧統制は残ったものの、民主主義の導入などによって、平和建設の時代となった。
 浦上小数区では、破壊をまぬがれた大鐘のつり上げや、仮聖堂の建立など、平和の建設が続くのである。

1)大鐘のつり上げ
 破壊された天主堂の瓦礫の中から掘り出された大鐘はほとんど無傷であった。「被災者たちの精紳を奪い立たせ、生活再建の意欲を起させるために、この鐘を鳴らそう」と永井隆博士は考えた。
 主任司祭と小教区顧問の同意を得て、3本の丸太を組み合せ、チエンブロックで、この鐘をつり上げた。仮鐘楼ができたのである。
 昭和20年12月24日、クリスマスの夜、原爆後はじめて荒野と化した浦上に聖鐘が鳴り渡り、平和の時代の幕明けのような鐘の音であった。

13.仮聖堂の建立(原爆後)

 原爆被災により、浦上小教区は天主堂の再建と教会の復興に非常な重荷を背負うことになった。

1)建設委員会発足
 聖フランシスコ病院の半地下室を浦上の仮聖堂としてから9か月を経過した。この仮聖堂はコンクリート床にムシロを敷き、窓は原爆でなくなっていたので、雨の日は雨が横から降りこんでくる。
 生き残りの信者と復員軍人、外地からの引揚者などで信者の数はどんどんふえていく。早く「神の家」である仮聖堂を建てねばならない。
 そこで主任司祭中田藤太郎師を中心に、小教区顧問で昭和21年6月に建設委員会を発足させ、建設を急ぐことになった。

2)仮聖堂完成
主任司祭中田藤太郎師は、司祭館とは名ばかりの小さな部屋に住みながら工事の進焼土の真只中にいち早く建設された浦上小教区仮聖堂(昭和21年)捗に努められた。
 信者全部が被災者か外地引揚者である。自分の生活再建も容易でなかったけれども、何をおいても仮聖堂でもよいから「神の家」を建てねばならない、と熱意にもえた。
 神父を中心に、老若男女の信者が一丸となって山に登り、材木を切り出し運搬に汗を流した。
 浦上の丘に面した山々は、すべて焼けこがれていたので、立木があるのは、その裏側で浦上から遠かった。
 そして信者の山主が立木を寄進するなどの協力が相まって、建坪171坪の仮聖堂は完成し、昭和21年12月1日、来崎中のギルロイ枢機卿の手で祝別された。
 被災地の公共建造物で最初に再建されたのが、この仮聖堂であった。カトリック信者たちの聖堂復興への熱意に長崎市民は驚いた。
仮聖堂でミサに与る浦上信徒正面から見た仮聖堂

 3)仮鐘楼完成

 仮聖堂が完成してみると、鐘楼が丸太の3脚つりではどうも……ということで、本聖堂ができるまでの仮鐘楼を造ることになった。
 少々の台風にも十分耐えられるもので、体裁もある程度よいものをということで、写真のような鉄骨造りの鐘楼が昭和21年12月完成し、12月24日クリスマスの夜から鳴り出した。(永井隆博士の「長崎の鐘」のモデルとなった。)


平和の鐘は鳴り渡る・・・・・鉄骨造りの仮鐘楼
14.原爆被災後の復興期

 我が国は、建国以来初めての敗戦に直面し、国民は呆然自失の状態であった。昭和21年は食糧危機となり、5月1日は食糧メーデーといわれる騒動で、デモ隊が宮内庁に押しかけ、暴動寸前のきぎしが見られた。
 そこで9月に、アメリカ軍が大量の食糧を放出したので、食糧危機騒動は未然に防止された。
 続いて昭和22年2月1日には、有名な2・1ゼネストが全国に指令されたが、マッカーサー指令で事前に回避された。
 このような社会不安の中にあって、浦上の被災者たちは家や家族を失った衝撃から、何とかして立ち上らねばならない苦悩の中にあった。
 この時にあたり、小教区関係では、やっと仮聖堂が完成したものの、小教区復興のためになすべきことが山積していた。

1)青年会、姉妹会(処女会)の再発足
 青年会、姉妹会は終戦前から組織されていたが、戦争と原爆で多数の合員を失い、組織も潰滅状態であった。
 そこで小教区復興に問題が山積しているこの時、この青年、処女の若きエネルギーを発輝して教会復興に寄与しようと、組織を立て直して再発足することになり、昭和21年5月10日、聖フランシスコ病院の焼け跡で両会が同時に発会式をあげた。

2)倒竣した天主堂のあと片付け作業


何もかも不足している時代、信徒たちは瓦れきの中で汗を流した

爆風で吹き飛ばされた天主堂の左搭鐘楼

現在も原爆遺構として保存

 仮聖堂ができて一応ほっとしたものの、目の前は煉瓦や石など瓦礫の山である。何とかして片付けねばならない。
 青年会を中心に手をつけてみたが、物は大きく重い。量は多大である。特に天主堂左側の川に落下した左塔は重量約10トンの特大物で、とても動かすことができない。
 ハッパで爆破してはとの意見も、進駐軍指令で火薬は一切使用できないとのことで不可能。
 そこで主任司祭中島万利師は、川の中の左塔処理の対策として、川を向う側へ移設することを考え、川向うの地主に土地の寄贈(川巾の分)を要請されたところ、心よく寄贈してもらうことができた。
 この川の移設は、あと片付けの促進に大きな効果をもたらしたのである。即ち、川の移設は左塔を落下したままの状態で、聖堂境内の敷地の石垣の中に埋めこむことにした。
 このため、聖堂境内の敷地の左側は、沢山の右で石垣を築かねばならない。この石に倒壊した天主堂の沢山の石が使用された。
 また煉瓦くずは築き上げる石垣の中に投入できて、片付けがスムーズに促進できたのである。

 なお煉瓦を一枚一枚、自分で外して購入する業者もあって、その売却金が、聖堂境内敷地の復興資金にプラスするなど、昭和21年から始めたあと片付け作業は、昭和24年のザベリオ祭までに完了した。また煉瓦くずは築き上げる石垣の中に投入できて、片付けがスムーズに促進できたのである。

3)永井千本桜の植樹

 原爆廃墟の浦上を、平和を象徴する地域にしようと、病床の永井隆博士は桜の苗木1,000本を浦上小教区に寄贈され、青年会がその植樹をした。(昭和23年11月15日)植樹の場所、地域などは次の通り。
 @浦上天主堂境内A信愛幼稚園
 B県立盲学校
 C純心女子学園
 D医大グラウンド
 E山里小学校
 F天主堂周辺の各地区内
 これら1,000本の桜は復興期の天主堂境内と、その周辺で満開し、平和を象徴していたが、植樹地建物の移転改修、その他で植樹後50年経過した現在は、天主堂境内と山里小学校、信愛幼稚園、純心女子学園に残っている程度である。