信徒発見後に建った4つの秘密教会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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1865(慶応元年)年、7世代待ち望んだパードレ様(司祭)との出会いを実現した浦上キリシタンたちは、厳しいキリシタン禁令のなか、浦上村では4か所の秘密教会(礼拝堂)(12〜15坪程度の藁葺の民家)を作り、密かに大浦天主堂から宣教師を招き秘跡にあずかり、教理を学び、ミサに与っていた。つまり大浦天主堂の巡回教会だったのである。 秘密教会(礼拝堂)は次の4か所であった。 @本原郷(もとはらごう)平(ひら)の「公現の聖マリア堂」 A本原郷(もとはらごう)辻(つじ)の「公現の聖ヨゼフ堂」 B家野郷川上(よのごうこうかみ)の「サンタ・クララ堂」 C中野郷長与道(なかのごうながよみち)の「聖フランシスコ・ザベリオ堂」
死人があると必ず壇那寺(だんなんでら)(聖徳寺(しょうとくじ)・・・・・・井樋の口(いびのくち))の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立ち合いの下で納棺することになっていたのに、宣教師の指導をうけるようになると、このような表面仏教という欺瞞的(ぎまんてき)な態度を清算しなければならなくなった。 信徒発見からおよそ2年後の1867年4月5日(慶応3年3月1日)本原郷の茂吉が死亡。その葬儀をきっかけに、浦上キリシタンは自葬を行うようになる。そして遂に、浦上村山里4郷の総代10名を庄屋にやって、壇那寺(だんなんでら)との関係を断つことを申し出で、相ついで400戸以上の村民が寺請制度を拒否する書き付けを出した。これは、徳川幕府が累代励行(るいだいれいこう)してきた「祖法(そほう)」に対する爆弾的レジスタンスであった。 長崎奉行所があわてたのも無理がない。やがて、浦上には奉行所探偵が入りこんで、村民の身もとや、信仰状態、秘密教会(礼拝堂)などの探索が始まる。
嵐の夜−68人捕縛 1867年7月15日(慶応(けいおう)3年6月14日)の早朝、これらの秘密教会(礼拝堂)は一斉に幕府から摘発を受け、全て破却(はきゃく)されるとともに、高木仙右衛門(たかぎせんうえもん)、守山甚三郎(もりやまじんざぶろう)、岩永マキ等の主立ったキリシタン68名が捕らえられ桜町の牢に打ち込まれた。
自葬事件をきっかけに、浦上キリシタン問題はまったく表面化し、手入れは時期の問題になった。長崎奉行は委細を江戸に報告するとともに、密偵を潜入させて浦上キリシタンの内情を探り、ブラック・リストの作成を急いでいた。当時の「探索書」や「異宗信仰候者名前書」というブラック・リストが今日に残されている。 1865年から3年間、浦上には4カ所の秘密教会が建てられ、そこに宣教師がしのび込んで村民に教理を教え、洗礼を授け、ミサを行っていた。つまり大浦天主堂の巡回教会だったのである。 探索書でその秘密教会の平面図や造作などが報告されているが、それらの秘密教会は本原郷字平の又市(またいち)方のうしろ、本原郷字辻の仙右衛門(せんうえもん)方裏、中野郷笹山裏、家野郷字馬場の市三郎(いちさぶろう)方裏にあり、12坪から15坪ほどの藁ぶき平屋で普通の民家の造りになっているが、奥に「仏壇」(祭壇)が設けられた。長崎奉行所の「探索書」(長崎県立図書館蔵)に、次の記載がある。
1867年7月14日(慶応3年6月13日)の夜は豪雨にたたかれながらふけていった。明けて15日の早朝、3時ごろのことである。長崎奉行所の公事方掛役人が本原郷字平の秘密教会聖マリア堂に踏み込んだ。 ここではロカイン神父がキリシタンたちに教理を教え、洗礼を授けるために潜んでいた。その夜の状況をロカイン神父はつぎのように記している。
この朝の手入れで平の秘密教会は散々に荒らされ、聖器も祭服もすべて持ってゆかれた。水方の又市(またいち)の子で、父にかわって伝道士として働くことになった友吉(ともきち)は捕えられて無理無体に打ちたたかれ、半死半生の態で放り出されていた。
サンタ・マリア堂の下に百姓市蔵(いちぞう)〈岩永〉の家があった。市蔵(いちぞう)の妻をモンといい、マキとフイという二人の娘がいた。この夜、男たちはサンタ・マリア堂に、女たちは市蔵(いちぞう)の家にとまっていたのである。 15日の早朝、戸をどんどんたたく者がある。マキは「どなたでしょうか。プワリエ様がおいでなさったのでしょうか」といいながら戸を開けた。そのマキの前に突っ立っているのは、陣笠をかぶり腕まくりした5、6人の捕手である。 「プワリエ様とは何だ。ここに異人がおらぬか」と、どなったので「おりません」と答えると「それでは上に行こう」と、さっさと出て行った。すぐその後でサンタ・マリア堂から叫ぶ声、たたく音、恐ろしい騒ぎが起こった。 「とにかくみ堂まで行って見ては」と父をうながして様子を見てもらった。その時、サンタ・マリア堂は厳重に捕手が取り囲んでいて入ることもできず、市蔵(いちぞう)はすごすごと帰って来た。思案にくれて上りかまちに腰かけていると、捕手がやって来て「手前も天主堂から逃げたのだろう」といいざま縄をかけた。 男まさりのマキは「父は天主堂にいたのではありません。上の方があまり騒々しいので様子を見に行っただけです。着物が濡れてはいないでしょう」と言ったので、捕手も市蔵(いちぞう)の着物にさわって見て「そうじや」と言いながら縄を解こうとしているところに、他の捕手がおりて来て「天主堂におったもおらぬもあるものか。胸をあけて見ろ、守りをかけているから」と言った。こうして胸にスカプラリオ(聖母の肩衣)をかけているのを見つけられて、縛られて連行された。
本原郷辻のサン・ヨゼフ堂は仙右衛門(せんうえもん)(高木)の持ち家であった。その朝、激しい雨足の中で荒荒しく戸をたたく音と、戸外の騒がしさに仙右衛門(せんうえもん)(45歳)は目を覚ました。貧しい百姓仙右衛門(せんうえもん)の家は小さく、間仕切りもない。男やもめの彼は、2男敬三郎(けいざぶろう)(16歳)、3男仙太郎(せんたろう)(6歳)の2人と寝起きしていた。長男源太郎(げんたろう)(19歳)は、神父になる希望で、フランス寺(大浦天主堂)にかくれ、勉強に励んでいる。 敬三郎(けいざぶろう)も起きあがった。仙右衛門(せんうえもん)が戸をあけるまでもなく、捕手が入りこんでいることを、捕手たちの松明の火で知った。探索書に
とのべているように、仙右衛門(せんうえもん)は浦上村キリシタンの指導的人物と目されていた。仙右衛門(せんうえもん)召し捕りは以上2つの理由によって行われた。 仙右衛門(せんうえもん)と敬三郎(けいざぶろう)が縛られて引き立てられた。土砂降りの雨が、赤土で固めた狭い庭をたたいている。その夜の状況を「仙右衛門(せんうえもん)覚書」は次のようにのべる。
サンタ・クララ堂の家主は市三郎(いちさぶろう)という老人、安政3年の三番崩れで捕えられ、釈放されていた。この市三郎(いちさぶろう)と息子の市之助(いちのすけ)、他に男女10名近くが捕えられた。市之助(いちのすけ)は眼が悪く、夜道を歩けそうにもないといって放免され、市三郎(いちさぶろう)は、彼を捕えた捕手が10年前の三番崩れで顔を見知った者だったので、不憫(ふびん)に思って釈放した。
中野郷の乙名に久五郎(きゅうごろう)というキリシタンがいた。探索書に「この者ども重立ち、信仰の者どもより金二歩ずつつなぎ立て、久五郎(きゅうごろう)の居宅前に天主堂と唱えて藁ぶきの小家取建て、住家同様にて横四間、入り一丈に取建て此所に追々信仰の者ども寄合いいたし侯よしに御座候」とある。1866年、この秘密教会にロカイン神父は、サン・フランシスコ・ザベリオ堂と命名した。 久五郎(きゅうごろう)の子徳三郎(とくさぶろう)は奉行所のリストに「此もの切者にて侯」とあるように、すこぶる切れ者、すなわち手腕のある活動家であった。 ロカイン神父が浦上の4つの秘密教会を巡回するには、深夜人が寝静まってから、日本の着物にちょんまげのカツラをかぶり、わらじをはき、手ぬぐいをかぶって大浦天主堂を出るのであったが、いつも1人2人の青年が提灯をもち、ミサの聖具を背負って伴をしていた。その青年の1人がこの徳三郎(とくさぶろう)であった。 7月14日の夜、中野の秘密教会には喜助(きすけ)、甚三郎(じんざぶろう)、善之助(ぜんのすけ)という3人の青年がとまっていた。徳三郎(とくさぶろう)はこの日曜日の朝、大浦天主堂でミサにあずかり、天主堂を出たところに、浦上からかけつけた信者から今朝の騒動をきき、大浦から舟で浦上に急ぎ、一本木山に隠れているロカイン神父のところにかけつけたのである。徳三郎(とくさぶろう)が浦上の状況を見聞きしてロカイン神父に知らせたので、神父にもようやく事件の全貌がのみこめたのだという。 この夜のことを甚三郎(じんざぶろう)(守山)の手記(稿本)のなかにつぎのように述べてある。
この天主堂の手入れで久五郎(きゅうごろう)も捕えられた。子の徳三郎(とくさぶろう)が「切れ者」として目をつけられていたので真っ先に家に踏みこまれ、裸体のまま縄をかけられ、長男寅次郎、その他の男女数人も捕縛された。 浦上教会 歴史委員会 |