8.本聖堂の建立

 元、庄屋屋敷の仮聖堂は、天井は低く古風で腐朽し、雨もりも多く、しかも5000人余の信者を数える浦上のためには余りにも狭小で、日曜日ごとに信者は屋外に溢れ出る状態である。いつまでも、そのままにしておくわけにはいかなかった。
 明治21年(1888年)9月、浦上小教区主任司祭となったフレノ神父は、天主堂建立の悲願に燃えた。浦上の信者たちが、250年もの長い間、絵踏みなどで十字架が踏みにじられていた、この庄屋の跡地に冒涜のつぐのいとして聖堂を建てるべく計画を始めた。

旧浦上天主堂の写真集

 1) フレノ神父の聖堂建築計画

フレノ師と小教区の顧問・教え方

 建築学的才能と芸術的センスを合せ持っていたフレノ神父は、金よりも心と相談して、至聖所にふさわしく壮大で、深い黙想ができるような聖堂が欲しかった。神父は自分で設計図をかき、単価を計算し、見積額を示して、クザン司教の指示を仰いだ。
 司教はまず途方もない厖大な計画と綿密な設計、装飾用の石像に目を見張り、次に予算額の大きさに、あきれ返った。「この金はどこから出ますか」と聞くと、フレノ神父は平然として、「金は天から降って参りましょう」と答えた。司教もフレノ神父の信念に動かされ、建築許可を与えた。
 フレノ神父が計画した浦上天主堂は、大きなクポラ(円天井)のある、石と煉瓦造りの純然たるロマネスク様式であった。それは11世紀の初葉にかけて、ヨーロッパのキリスト教国で隆盛を極めた建築様式であった。

 2)フレノ神父の募金行脚
 新しい天主堂は漸増していく信者数に見合う壮大なもので、同時に芸術的美しさも必要だと思ったフレノ神父は、明治25年いよいよ設計にとりかかった。
 最大の難点は建築費であった。明治初年の一村総流配による経済再建はまだできていない。その信者たちが、どうして建築費を拠出し得るであろうか。
 信者たちはこぞって「なんとかしたい」といった。フレノ神父は毎月、日を決めて浦上の地区ごとに胴乱を下げて積み立ての金を集めておられた。茶色にあせたスータン姿の神父が見えると、子供たちが「神父様ん来らいたあ!」とふれ歩く。家々から5銭、10銭と持ってくると、神父はにこにこしながらノートに記入して、胴乱に入れておられた。
「その頃は、それもごく見慣れた風景として、何とも思いませんでしたが、今にして思えば、誠に尊い歩く聖人の絵姿のような気がいたします。」とある古老は語る。
 こうして金が集まると石や煉瓦を買う。それが土井の波止場に陸揚げされると、信者たちが争って労働奉仕に出て、高谷の丘の建築現場に運んだ。
 フレノ神父は日本とフランスの知人たち、そのほかの国々の人々にも援助を求めた。長崎に入港する外国軍艦や汽船の乗組員の献金もあった。
 フランス東洋艦隊の軍人モーリスは、親から譲られた財産を整理して多額の金を献金した。後にフランシスコ会修道司祭となって来日し、フレノ神父の苦労を感慨深く思いながら、完成した浦上天主堂に参詣したという。

 3)聖堂の工事着工

戦前の天主堂内部 ミサ風景

 フレノ神父の設計開始から3年、仮聖堂建立から15年を経過した明治28年(1895年)フレノ神父自身の設計と監督のもとに着工にふみ切った。激動する明治の社会情勢の波がフレノ神父の身辺にもひたひたと押し寄せ、困難が相ついで起った。神父は多病に苦しんでおられたが、いつも努力して何でもないような顔をしておられた。
 神父と信者たちは一致協力、営々として工事に努力したが、社会状勢は日清戦争などの影響でインフレの波が高く、資材購入費と人件費が高くなり、フレノ神父を苦しめ、工事はなかなかはかどらなかった。明治38年頃は日露戦争で更にインフレはひどくなり、工事は一時中断のやむなき時もあった。
 神父は私財をなげうち極度の清貧にあまんじながら、刻苦勉励16年の長きにおよんだが、明治44年1月24日、過労に倒れ逝去された。64才、日本在留38年であった。
 つづいて、ラゲ神父(ベルギー人)が浦上小教区主任となり、工事を継続された。しかしラゲ神父は、永年にわたる信者たちの労苦を思い、かつミサごとに仮聖堂の外に溢れる信者が年ごとに増加するのを見て、速かに本聖堂完成の必要を痛感された。

 4)本聖堂完成
 ラゲ神父は設計を変更して、中央ドームをつくらず、上部を木造瓦ぶきにして工事を急ぎ、5年後の大正4年(1915年)3月18日、浦上信徒発見50周年記念の佳き日(3月17日)の翌日、コンパス司教により盛大な献堂式が行われ、無原罪の聖母に献げられた。

 構造は上半部以外は石材と煉瓦で造られ、

建坪:1,162平方b(352坪)
梁間:20b〜29b
桁間:50b

 の十字形であった。

 建築内容は、堂内祭壇前には教皇使節(現在では教皇大使)フマソニー・ピオンジ閣下よりいただいた重量75kgの聖体ランプ。ベルギーの某信者寄贈の聖心及び聖家族像など立派なものがあり、堂内正面の聖母と、ペトロ・パウロのステンド・グラスのモザイク像は東天が、うすらうすらと白けはじむる頃からその神秘的美しさを現わしていた。
 大祭壇上の無原罪の聖母像は、スペイン渡来の木像であるが、足下の天使群の中、一位だけ高村光雲も、「のみを投げて三歎これ久しうする程」の稀世の傑作であるといわれた。
 天主堂の外側は、ロマネスクを模したアーチの玄関、白大理石イオニア風の円柱、赤煉瓦の壁面など、さすがは東洋一といわれるその偉容には心うたれるものがあった。
 外側を一巡して先づ目につくのは、軒に並んでいる84体の天使半身像、33体の獅子、14体の聖者石像である。これらが浦上天主堂の外面的異色をなしていた。
 これらの聖者石像が芸術的であるかどうかは、専門家の判断にまかせるとして、ただこれらが浦上天主堂の異色であり、何とはなしに、ほほえましい浦上的な香いを感じさせたものであった。
 石は天草石の粗末なもの、彫刻は天草の住人某という石仏師だった。フレノ師は、この像を刻ませるために、全国から多数の地蔵造りを呼んだが、「異人さんの顔は刻み得ない」といって、皆2〜3日で引上げてしまったそうである。
 それらの中で、この天草の地蔵造りだけが、曲りなりにも仏さんに似たこの異人聖者像を刻み上げたのだそうである。
 天主堂の正面右側に木ねりの柿の木が一本立ち、傍らに大きな自然石があった。ここが昔の庄屋屋敷の玄関跡で、この木に私たちの父祖は、しばりつけられ、宗門吟味の苛責をうけた。この右は庄屋の手水石で、この苛責を黙然として見ていたのだという。

9.浦上信徒総流配50周年記念祭

浦上信徒総流配50周年記念碑と記念祭に参集した生存者たち

 大正9年(1920年)8月、浦上のキリシタン3,394名が、明治2年に全国21藩に流配されて50周年を迎え、コンパス司教司式のもとに、流配の生存者が多数参加して記念ミサが行われた。
 司教様の説教に、生存者たちは50年の昔の辛苦を偲び、感がいを新にした。
 ミサ後、50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」の除幕式が行われ、参列者一同、昼食の馳走にあづかり、盛会裡に記念祭を終了した。

10.本聖堂正面の双塔完成

 20年の永い間、辛苦の未完成した浦上天主堂は、東洋一を誇る立派なものであったが、鐘楼がない。主任司祭のヒューゼ師は本聖堂正面に双塔を建てることを計画し信者の協力を求めて着工し、約1年後の大正14年(1925年)双塔が完成した。本聖堂完成から11年、着工から30年にして、浦上天主堂は立派に完成したのである。
 高さ25m、の双塔は鐘楼となり、左塔には小鐘が、右塔には大鐘がつり上げられ、クリスマスや復活祭などの大祝日には、大小の鐘の音が同時に鳴りひびき、浦上の丘にこだました。
 なおこの大鐘、小鐘はフランス製で余韻があり、神秘的な神のお告げのような音がするといわれた。
 原爆被災により小鐘は大破し、その破片は現在信徒会館2階の資料展示室に展示されている。
 大鐘は無傷で廃墟の中より取り出され、現在の再建された右塔につり上げられ、毎日浦上の丘に、こだましている。