4、復活後の迫害(1)

1)奉行所の探索強まる。浦上四番崩れ
 死人があると必ず壇那寺(聖徳寺……井樋の口)の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立ち合いの下で納棺することになっていたのに、宣教師の指導をうけるようになると、このような表面仏教という欺瞞的な態度を清算しなければならなくなった。
 その後、死人が出るとお寺に頼まず、自葬するなど、坊さんとの間に、いろいろ問題がおこり、これをきっかけに、浦上山里村四郷の総代10名を庄屋にやって、壇那寺との関係を断つことを申し出で、相ついで400戸以上の村民が寺請制度を拒否する書き付けを出した。これは、徳川幕府が累代励行してきた「祖法」に対する爆弾的レジスタンスであった。
 長崎奉行所があわてたのも無理がない。浦上には奉行所探偵が入りこんで、村民の身もとや、信仰状態、秘密礼拝堂などを探っていた。1865年から3年間、浦上には四ヶ所の秘密礼拝堂が建てられ、そこに宣教師がしのびこんで村民に教理を教え、洗礼を授け、ミサを行っていた。つまり大浦天主堂の巡回教会だったのである。
 秘密の礼拝堂は次の4ケ所であった。
  ○本原郷、乎の「公現の聖マリア堂」
  ○本原郷、辻の「公現の聖ヨゼフ堂」
  ○家野郷川上の「サンタタ・クララ堂」
  ○中野郷、長与道の「聖フランシスコ・ザベリオ堂」

 いよいよ探索が終って手入れが行われたのは、1867年(慶応3年)7月15日の早朝であった。


守山 甚三郎

 最もねらわれていたのは、中野の聖フランシスコ・ザベリオ堂で、襲われたのは午前1時、堂内には松田喜助、守山甚三郎の2青年と真田善之助少年とが、とまっていた。
 喜助が縛られ、善之助少年は窓から、するりと抜け出てしまった。甚三郎は捕手が入ったのも知らぬ顔で聖画像をはずし、一か所に整理して捕手の前にひざまずき、両手を背にのばして「縄をかけて下さい」と言った。
 あまりのおちつきようを見て、「キリシタンの神通力」を持っているのだと、捕手たちは、しばらく手をつけえなかったという。この甚三郎は後に津和野に流され、信仰の偉人として名を知られることになる。
 この時、捕縛されたのは男女68名、桜町牢に打ち込まれた。こうして、浦上ではまた迫害が始まった。
 寛政2年(1790年)の一番崩れ、天保10年(1839年)の二番崩れ、安政3年(1856年)の三番崩れに対し、慶応3年(1867年)のこの迫害を浦上四番崩れと呼び、後に浦上一村を赤土と化するに至った大崩れになったのである。

 信仰に対するこの弾圧は、在留外人たちの敵愾心をわきたたせた。プロシア領事、フランス領事が相ついで長崎奉行に抗議し、その数日後に来崎したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行に抗議し、牢内の信徒を見舞った。大国アメリカの全権公使が農民信徒たちを懇切に慰問したことは長崎奉行を驚かせた。
 この農民たちが罪人ではなく、信教の自由という人権を守り、良心の尊厳を守るために身を捧げようとしていることに対して、アメリカ公使がいだいている敬意を、長崎奉行は理解できなかった。
 しかし結局、この事件は長崎奉行の一存で解決できる問題ではない。幕府と、各国公使との談判に任せられることになった。その関係文書はたくさん残っており、幕府の苦慮がよくうかがわれるが、結局、日本人の間に「信仰の自由」というような近代的思想が理解されるに至らないことが問題の解決を不可能にしていたのである。
 キリシタン邪教観は徳川時代250年、思想統制の支柱となっていたものである。しかし閣老たちの間にも浦上事件について、外国使臣と折衝している間に、この考えを改めねばならないことを悟った者が少なからずあった。しかし今度のキリシタン事件を解決できないままに幕府は瓦解してしまった。

 2)明治政府と浦上キリシタン
 慶応3年(1867年)12月9日、徳川幕府が倒れ、明治政府が成立し、慶応4年2月14日、参与に任ぜられた沢宣嘉が長崎に着任した。彼らがまず着手した仕事は浦上キリシタンの処分である。沢が着任してから1ケ月後の3月14日、政府は祭政一致の政体に復古する布告を出して、神道国教主義の政治方針を明らかにした。それは当然、キリシタン弾圧を決定づけることになった。

1、切支丹邪宗門之儀は堅く御制禁たり、若不審なる者之有れば、その筋之役所に申出可、御褒美下さる可事。 慶応4年3月 大政官

 キリシタンを邪教として排撃することは、神道主義による全体主義国家を標傍する政府にとって、必要かつ効果ある政策なのであった。

 御前会議で浦上キリシタンの処分決定
 慶応4年(1868年)4月22日、在阪の親王、議定、参与、徴士が天皇の御前に召されて、キリシタン処分の案文を示され、意見を申し上げるよう御沙汰があった。御沙汰に答えた答申は現在76人分知られている。それを見ると寛厳さまざまの意見を見ることができる。

 かくして、処分に関する御前合議がひらかれたのが4月25日、会議には三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上孝に、長崎から呼び出された大隈重信が加わった。
 決議は木戸の意見が用いられ、巨魁を長崎で厳刑、余党三千余人を、尾張以西10万石以上の諸藩に流配して、藩主に生殺与奪の権を与え、7年間は一口半の扶助米を支給して、キリシタンの中心浦上を根本的に一掃するということに定まった。
 しかし、閏4月3日、イギリス公使パークスをはじめ、外国使臣と日本側がこの処分問題についての大論争が展開された。日本側は、キリシタンが国法により禁止されているから、その違反者は法により処分するのであって、外国の干渉は受けないということを強硬に主張したのに村し、外国使臣たちは、自然法に基づく人道主義の立場から、その非を論じた。
 すなわち国内法は、自然法に立脚すべきもので、信仰の自由という自然的人権を弾圧する法は悪法であって、その悪法によって浦上キリシタンを処分するのは人道にそむくといって抗議した。しかし、明治新政府の意気は軒高たるもので、木戸孝允は間もなく、処分実施のため長崎に下ることになった。

 3)浦上信徒総流配
 諸国流配の御沙汰書が発せられたのは、閏4月17日。大和郡山柳沢甲斐守約100人、尾張名古屋徳川元千代約250人、以下32名の諸大名とそれに分配すべき人数とが示されていた。
 しかし、維新の際の繁忙複雑な情勢の下で、そのまま実施できない点もあり、輪送能力もないというようなことで、5月20日になって、長崎裁判所における最後の会議で、ようやく明治元年6月1日から、とりあえず中心人物114名の移送を開始することになり、同日、萩に66名、津和野に28名、福山に29名、計114名の移送が行われた。
 残りの戸主700名に出頭命令が出たのは明治2年11月30日(陽暦1869年1月1日)明朝六ツ時までに立山役所に集まれというのである。弾正大忠渡辺昇が処分のため派遣されてきた。

 正直な農民にすぎなかった浦上の村人を、ただキリシタンだというだけで、全村移送という強引な措置をとるに至ったのは、二つの理由からであった。
 第一は、明治政府の神道国家主義による思想統制の必要からキリシタンが排撃されたこと。
 第二は、政府要人のキリシタンに対する誤解である。
 すなわち、徳川幕府が幕藩体制確立のために鎖国を行い、キリシタンは邪宗門であるから、その伝来の道を絶つということを鎖国の口実とした。そしてキリシタン邪教の証拠として、島原の乱をとりあげたのであったが、250年にわたって徹底的に浸透させられたキリシタン邪教観が政府要人の頭にも先入観となっており、一村全部キリシタンであれば、どのような暴動を起すかもはかりがたい、と考えた。
 迷惑なのは浦上キリシタンたちであって、全村民が故郷を遠く移送されて、飢餓、拷問に苦しめられることになった。しかし信者たちは、信仰を守るためならば、というので皆進んでこの苦難におもむくことになったのである。

 1870年1月5日(陰12月4日)朝、振遠隊の兵士が浦上に出張して、男子たる戸主を立山役所に集め、大雪の中に終日役所の庭に立たせた末、夕方、大波止から乗船させた。6日には、先に萩、津和野、福山に流された114名の家族を召喚して、夕方、乗船させた。

 明日から総御用(全員召喚)だといううわさは5日朝早くから確認された。役人は家々を廻って、持ちたいものは何でも携帯するがよい。携帯しない道具類は近所の仏教信徒の家に預けておいて、帰還してから取りもどすがよい、といい渡した。しかしキリシタンたちは殉教の覚悟であったから、持っていく用意などほとんどしていなかった。
1月6日、その日から残った家族全員の検挙が行われることになった。渡辺弾正大忠みずから浦上に出張して検挙を指揮した。
 「渡辺が馬上で叱咤している姿は、まるで鬼のようであった」と今でも語り伝えられている。
 家族たちは、家族ごとに、また地域ごとに、できるだけかたまって庄屋に出頭した。
庄屋の庭には東、西、南、北と書いた旗が立ててあって、役人が一人一人の名を呼んでそれぞれの旗の下に集めた。
 1月5日、召喚された戸主700名は皆、長崎港から船で送られたけれども、家族たちの場合は、まちまちであった。鹿児島、長州萩、福山、姫路、松山、和歌山、大聖寺、金沢などは、長崎港から出帆した。鹿児島、萩行きの人びとのように蒸気船に乗っていったものもあるし、松山、和歌山の一部や金沢行きの人びとのように、和船で送られたものもいる。
 広島、松江、鳥取、高松、高知、郡山、伊賀上野、伊勢二本木、名古屋行きの婦人子供たちは時津に陸行し、大村湾を渡って彼杵に出、御厨に出てそこから乗船するもの、西彼杵半島の面高から乗船する者など、いろいろであった。集合地もまちまちで西役所で集合してまた浦上経由時津に向うもの、浦上の庄屋に集合してそのまま時津に陸行するものなどいろいろであった。
 全部を長崎港から乗船させなかったのは、長崎在留領事団の神経を刺激するのを恐れたためでもあったが、船の準備が間に合わなかったことにもよったようである。
 西役所に一応集合して時津に向った人びとは、列をつくって浦上から長崎への時津道を行進した。
 遠くから眺めると黄木綿の手拭をかぶったり、洗礼の時かぶった白布を「アニマ(霊魂)の被い」といってかぶった人びとの群れが、はつるとも知らずつづく様は壮観でもあったが、近くから見れば、そこばくの手荷物を下げたり幼児の手を引き乳児を背負うていく母や、けなげにもロザリオをつまぐりながら、頬をまっかにして降りしきる雪のなかを進む少年少女、杖にすがりながら歩く老人の姿は、沿道に人垣をつくって見物する人びとの胸をさえゆすぶらないではおかなかった。
 一村総流罪という、その「旅」は近代日本の歴史に特筆さるべき残酷物語ではあった。しかし「旅」に出る人びとの心は明るかった。神と信仰に背くことを人倫の極悪と感じ、おのが信念と神とへの忠実さを貫ぬくために殉教の旅に出ることは、彼らに残された、ただ一つの真の幸福への活路であったのだ。
 かくして、3,394名、全村民が移送され、浦上は無人の村となった。流配地と、その人数は次表の通りである。

(流配人見移動表の説明)
 @復籍は故郷浦上に帰籍すること(改心者)
 A編籍は明治5年までの改心者が流配地に居残って、その地の戸籍に入ること。
 B明治6年帰籍者は不改心のまま浦上に帰郷した人々。
 C流配人員の(  )内政字は流配地受取以前の途中死亡者を含まない人数。
 D生児、死亡欄の(  )内数字は明治4年の「公文録」にあって、その後の資料を見ないもの。それは伊勢二本木、徳島、高松の3藩で、流配人員と生児、死亡、復籍、帰籍の差引人数は必ずしも一致しない。

 4)旅 の 話
 信仰を守り通すため、全国21藩に流配された浦上信者たちは、6年有余の長い間、饑渇拷問など数々の苦しみに堪えたのであるが、その中で特に厳しかったといわれている和歌山と津和野の一部を述べて、「旅の話」の理解に努めたい。

 流配人員移動表
を御参照ください

 ○異宗徒取扱い規則
 明治元年にはじまった浦上キリシタン流配をキリシタンたちは「旅」といった。
 政府が機会あるごとに、「非常の寛典をもって藩々に移住を命ぜられたが、彼らの家族は離散の憂いのないよう同一のところに送られ、その藩々にて住居を与え、それぞれ産業につけて安堵させるよう」に処置したことを外国使臣団に強調しているのとはまったく相違して、神道による洗脳教育と、重労働、拷問、そしてひどい食物不足に悩まされていた。収容所の不潔と饑餓とは各藩共通の現象であり、疫病の流行したところもあった。
 これは政府の「異教徒取扱い趣旨」が各藩で、そのまま受け取られていないことにも原因があり、また各藩のキリシタン邪教観からそうなった場合もある。

 移送キリシタンの取扱いについては、明治3年5月17日、刑部省から「刑場大略取扱方」を外務省に示し、7月28日、外務省から神祗官と刑部省に「邪宗徒取扱方大略」を送り、各藩頭かりのキリシタン取扱いの基準を示した。
 外務省が示した大体の取扱い方はつぎのごとくである。

 1、10人以下一部屋とし、草履、落し紙など渡すべきこと。
 1、一家族一部屋にまとめ住ませること。
 1、男女の別を厳重に正すべきこと。
 1、老幼強弱見計い、それぞれ労働させること。
 1、労働する者へは、股引、夏は半纏を渡すこと。
 1、仕着せ、蒲団を渡すこと。但し冬は綿入れ一枚、夏は単衣物一枚。
 1、食糧は男女共一日一人に付、玄米5合、味噌20匁、菜代20文に定め、朝昼夕三
  度に賄うこと。但し、労働する者には米、味噌を増加すること。
 1、働きの精、不精により相当の貨銭をつかわすこと。但し、右の貨銭で食物など
   を買入度く願い出る者には買入れてつかわすこと。
 1、米つき、水汲み、炊事番、病人扱いなど、それぞれの役を申しつけ、貨銭をつ
    かわすこと。
 1、信徒身寄りから品物、食糧など差入れ願いがあっても許可しないこと。
 1、病気の節は、もちろん投薬、手当てをいたしてやること。

 しかし、これらの取扱い基準は、ほとんどの藩で実行されなかったようである。キリシタンたちの体験談の「旅の話」は、なまなましくその実情を伝えている。


片岡 サダ

 ○サダの話
 本原郷一本木の音五郎(明治2年、34才)の妻サダ(30才)は4人の娘たちと紀州和歌山に流された。次の文は、サダの体験記(稿本による)の一部である。

 男子が12月4日(明治2年)に家をたち、5日に女、子供に御用がありました。6日の朝、雪がたくさんつもっておりましたが、娘2人の手を引き、1人を背負うて畦無(現在の扇町付近)の田の中に集まりました。それから山里の庄屋の下の田に行き、それから西屋敷(県庁)にいき、途中ではコンタス(ロザリオ)を声をはり上げて祈っていきました。
 6日の晩、西屋敷にとまり、7日の朝、調べがあってから、ことごとく、ここかしこにやられました。私たち紀州行きの者は、晩に船に乗り、14日に紀州和歌山の寺にあがりました。40日の間、番人がついておりましたが、それから岩崎というところの寺にいったとき、男子の顔をはじめて見ました。そこに20日ばかりもおりました。
そしてまた御用のため、わかれわかれになり、小さい子供だけつれた人は、その子供だけいっしょで、他の人はどこにいるかもわかりません。
 また和歌山にやられて馬小屋に入れられました。そこに入れられるとき、身を調べられて、コンタスもマリアのハタも取り上げられてしまいました。そこには、ただ子供、老人の仕事のできない者だけがおりました。達者な人は3里離れたハナシタというところにやられたのです。
 馬小屋のなかに6月(明治3年)から翌年1月までおりました。このあいだは悲しくありました。熱病がはやり、9人ばかり死にました。少しの水もなし、薬もありません。夜は灯がないので、臨終の人がいても、この人はまだ息があるのか、死んでしまったのか、まっ暗で、はっきりわかりません。手先でさわってみたり、息の音にきき耳を立てて、最後のお務めをさせました。まっ暗いなかで死んだ人のためにオラッショ(祈り)をいたしました。
 死人があるとアニマの被い(洗礼のとき用いられたヴェール。彼らは旅に出るとき、これをかぶって家を出た)をかけてやりましたが、すぐシラミがたかって、白い被いが、まっ黒に見えました。死体は夜にならねば取りに来ません。四斗樽に入れて行くから、体は半分外に出ております。それまで敷いていたムシロを上からかけてやりましたが、それは、小便や大便で汚れていますが、どうすることもできませんし、それしかかけてやるものがありません。
 あまり死人が出るので、役人が来てみて、2月15日ごろ、そこから出し、御用(取調べ)をいたしてから、"改心せよ" と責められました。"改心しません" と、いい切りましたときに、そこから1里ばかりも離れたところに長屋をつくってありますが、男と女とは1里も離れて、その長屋に入れられました。
それまで、ご飯は、小さい茶碗にて一膳にきまっておりました。それも赤米のおかゆでありました。お菜は梅干一つでありましたから、皆のものが便所にいって、かがんだらもう立つことができず、気絶することもたびたびありました。
 そんなとき、"水をください"と言っても、"水はない" といって、もらえませんでした。改心した人が外にいて働いていましたから、その人たちに、"内緒で水を入れて下さい"と頼んでも入れてくれません。病人は"水、水"と言いつつ死ぬありさまでした。
 また"固い御飯が食べたい"という病人があると、おかゆを濾したら"御飯がありわしまいか"とこしてみたけれども、赤の芽ばかりでありました。子供が、"水をのみたい" "ひもじい"というのを聞きかねて、親どもが改心をするのもたくさんありました。

 ○馬小屋収容所
 明治4年1月、サダらが長屋に移されたのは、後にのべるところの楠本正隆の巡視の結果であって、そのときから住居も、食事も改善されることになった。
 馬小屋収容所の状況について「浦上切支丹史」の「旅の話」には、つぎのようにのべられている。
 その馬小屋は桁行33間(1間は1.8m)の大きな長屋で湿っぽい土間に丸太を並べ、その上に板を置き、ムシロを1枚しいてある。窓は高い狐格子で、日の目など夢にも見られない。室は3つに仕切り、左右の2室に男女を別々に置き、なかを空間にして、たがいに話ができないようにしてあった。
 天井は張ってないので声をかぎりに叫ぶと聞きとれぬことはない。梁をつたっていけば往来もできる。ただ現場を押えられたときは、十手の曲る位に打ちたたかれねばならなかった。
 彼らは馬小屋に入る前に、一人ずつ裸にされ、宗教書、コンタス、聖母の肩衣まで、すべて没収された。すばやく土の中に埋めたり、子供の髪の中に隠したりしたものだけが、わずかに没収を免がれた。
 室内には蚊帳もなく、灯火もなく、蒲団もない。着のみ着のまま、暑い夏も寒い冬もすごさねばならなかった。
 食物といえば、海水につかって腐りはてた南京米2合5勺が一人一日分で、副食物は梅干一個か、塩一つまみである。しかし、その2合5勺の南京米も、そのまま彼らの口に入るのではない。
 馬小屋の附近には定職のないものが大勢いたので、役人らは、それらのものに、キリシタンの炊事をやらせた。彼らは、一人前2合5勺の飯をたいて、まず自分たちがたらふく食べ、食い残りに水を入れて、大きな棒でかきまぜる。米の粒さえ見つからないように、すりつぶしてから、桶に入れ、馬小屋に抱えこみ、"さあ、粥ができたぞ。早く釆てたべろ" というのであった。
 その水粥を分配してみると、一人分がわずか柄杓八分位にすぎない。御用に呼び出されるのでもなければ、拷問にかけられるのでもない。夜も昼もうす暗い馬小屋にこもなすこともなく籠居しているので、別に心をまぎらすものとてなく、ただ饑じい、饑じいと思いあかすのみで、一層堪えがたい。何かとって食べたい。蟻が這い出て来ても、すぐにこれをなめる。けっして一匹の蟻でものがしはしない。彼らは、もう瘠せにやせて骨と皮ばかりだ。
 長崎を出発するときはトントン飛び廻っていた子供でも馬小屋に入ってからは、足がきかなくなった。10日も20日も一滴の水も支給されないので、男は竹を樋にして天水を引き、ノドを湿したが、女子の方ではそんな知恵も出ず、ただ焼くような渇きに苦しむのであった。
 その上、毎日腐れ米をすすったので、多くは下痢症にかかり、2〜3日すると、ムシロは汚れて、ねるところすらないありさまとなった。ことに9月か10月には、洪水が出て、八丁川の土手が壊れ、馬小屋は5尺ばかりも水浸しになったので、キリシタンたちは附近の寺に避難させられた。いること4日、ようやく水がひいたと思うと、無情な役人は、そのじめじめした乾きもしない土の上にムシロをしいて、キリシタンたちを追いこんだ。

 たちまち熱病が流行した。のどは焼くがごとく渇く。"水を" とたのんでも "なんや、水はないわ" とはねつけられる。あまりの苦しさに、"小便でものませてください" と口走ったものさえあった。
 もう饑渇に弱り、熱に衰えているので、ややもすると気絶して倒れる。けれども一口の水も含ませて蘇生させることができない。唾をのませようと思っても、口がからからにひからびて、その唾液すら容易に出ないのであった。

 ○仙右衛門らに対する拷問


高木 仙右衛門

 本原郷の農民、仙右衛門(高木)や中野郷の甚三郎(守山)らは、明治元年、津和野に流された中心人物であった。仙右衛門覚書にはつぎのように記録されている。

 私ども114人のものに長崎奉行(長崎府総督の誤り)より切紙をもって御用(呼び出し)がごぎりましたによって行きましたところが、旅にいき、国々にお預けになると仰せ渡しあり、じきに出されました。
 大勢の兵隊が左右を取り囲み、大波止より船に乗り、蒸気船に乗り移りました。一晩船にとまって船出し、下関につきました。このところに66人上陸しました。それからまた尾の道というところにつきました。

 長崎で積み出されるとき、天主堂のパテル(神父)さま方が、私どもを見ている姿が目にうつったので、オラショ(祈り)をはじめましたが、尾の道までオラショをして来ました。それから28人に役人がつき添って、尾の道の寺にあげられるとき、縛るといたしまするので、「私どもは縛られて、ここまではまいりません。また別条あるものでもありません。」と申しましたところ、縛らずにそのままあげられました。その寺に14〜15日おかれ、そのうち2度調べをうけました。
 ここでは、ただ口責めのごとく役人が尋ねまするには、「キリシタンというものは、何をするか。その方たちは日本の宗旨にしたがうようにせよ」私これに答えて申しました。「信仰する者は、天地の御主、御作者なる天主でごぎりまする。また日本の宗旨にしたがうのほどであれば、ここまでかようにしてまいりません。」

 それから、津和野の役人がつれに来て、その役人とともに、大切にされて津和野の城下につきました。その城下より離れたところにある光淋寺という寺におかれました。その寺に、役人が、かわるがわる私どもを守護するために釆ました。また調べをする役人も毎日来ました。
 「そちたちの宗旨の司は何と申すか」といろいろ尋ねますから、「その司はエビスコポ(司教)つぎはパテル(神父)と申しまする。この宗旨はけっして悪しき教えではありません。よき教えでありまする。300年前に聖フランシスコ・ザビエルさまがはじめて日本に来りて、この教えをひろめ、およそ日本に八分通りひろまりました。
 けれども太閤様より御法度になりまして、いま日本にては御法度ということは知っておりますけれども、300年このかた、キリシタンの教えが悪いということをききません。ただ、天地のみ主を信仰いたしまする。この万物の御親天主に御奉公する道でござりまするがゆえに、先祖よりも言い伝えられて、これを代々信仰いたしておりまする。
 またこの上、いま新しき教えをききまして、なお心は丈夫になりておりまするゆえに、これをやめるようであれば、ここまでまいりませず、長崎において長崎の御代宮にしたがえば土地財産も、望みのままに与えられておるのでござりまする。
 けれども終りなき天の幸福を求むるために、いかなる責苦に逢うても改心することかないません。ゆえにこうして来たものでありますれば、この上、いかようなことがありましても改心するということはできません」と申しました。
 ところが、はじめのほどは、あまり責苦もありませんでしたが、この光淋寺におかれたる28人のうち、6人ばかりの者は、心が変り改心して、早くわが家に帰りたい心になって、この6人は尼寺(法真庵)に移しました。
 役人は、この弱みを見て、残りの者をこの6人のごとくさせんがために、きびしくなりました。御吟味がきびしくなり、食べものを減らし、ひもじいようにして口責めをいたします。
 「たとえば、麦ばかりを食べて麦の味わいを知りて、よき米の味を知らざるごとく、キリシタンの教えより、仏教、神道の教えの味わいを知らざるによって、その方どもいまのごとくなり。
 また、みかんの木に柿の実がならず、さすれば日本の天子さまは、みかんの木なり、そちたちは、その枝葉なれば、天子さまの規則にしたがって、その教えをよく守るべし。人は親なくしては出れず、また親は子供をよく養い、よく育てるに、その子供は旅の人にしたがい、旅の教えを守りて、その親にしたがわざればいかがあるか。
 いま汝たちは我が親たる天子さまにしたがわず、異国の教えを信じ、異国の人にしたがうは何ぞや。あまり我がまま無法のしわざなれば、これをよく勘弁して明日返答せよ。明日までこれを頭け置く。」と役人はいわれました。
 明日になって返事をせねば叱られたので、これに答えて、「これは異国の人にしたがうことではありません。また異国の人のためには信じません。異国のためにも日本のためにも、ただ世界中の御主を敬いまする。この御主は、いずれの国も計いまするゆえに、私どもは食ぶる時にも天主に御礼を申しまする。また天子さまのことも思いだされまする。」
 と申しましたところ、役人いうには、「さすれば汝たちのいうその天主が、そちたちに食べものでも、何でもかでも、じきに与えるじゃから、何でも拙者どもに願うな、食べものが足らぬなど申すことはないじゃろ」
 といいましたによって、私ども答えまするには、「私どもはさように力ある者でありませんゆえに、ここに、こうしてまいっておりまする。また天主の御計らいで天子さまより食べものが与えられます。それができなければ食べずにおりまする。また仏教や神道は、まことの教えとは思いません。仏教や神道の教えによって助かるようにありますれば、キリシタンを守り、御禁制をうけて、我が里を捨て、妻子を捨てて、ここにこうしてまいりません、ゆえに私どもは改心するということはできません。」


光淋寺跡に建てられた
流罪キリシタンの碑

 さて、11月のころ、雪の降る日、私は7日ばかり病気をいたしておりました。御用というて来ましたによって、「病気中でござりまする。これまで御用の時、一度もまいらぬことござりませぬ。病気がいえましたならばじきにまいりまする。それまで断りまする」と申したところ、「歩むことかなわねば、荷われても、負われてもまいれ。今日ぜひ御用に出よ」と2〜3度も呼びに来ましたゆえに、そろそろと一人で行きました。
 千葉という役人申すには、「その方かんべん(改宗)できぬか」とのゆえ、「かんべんなりません」と申したところ、「それでは裸になれ、その着物は日本の地でできたものゆえ、外国の宗旨の者には着せられぬ。裸になりて池に入れ」と申しましたので、私は、「どんな科人でも、病気の時には全快するまで御用はないはずなのに、私が病気であるゆえ断りましても御用吟味いたしなさる。またこの着物は私の土地で私が作ったものゆえ、自分ではこれを脱ぎません。裸にするなり、池に入れるなり、御自由になさりませ、私からはいたしませぬ。」と申しました。

 千葉は下役にいいつけて、私を裸にして池に入れました。時に、寒さは針で突き刺すごとくでありましたので、私は大声でオラショ(祈り)をいたしましたら、役人が怒って四方から水をくりかけました。
 私が死にそうになったので、役人は、「早くあげよ」といって池からあげられ、もとの責め揚(拷問室)に据えられて、「これでもかんべんせぬか」と申されたので、「とてもかんべんなりません」と申しました。
 それから吟味をうけまして、焚火で暖められたので身体じゅうがうずき、つぎに悪感、戦慄がきて、歯も抜けるかと思いましたが、2〜3日たつと、もとの熱病までなおっておりました。後に、甚三郎の親、国太郎という人が、その池に入れられました。
 松五郎という人は、池のかわりに、外の牢屋にやられました時、3日間食べずにおりました。御飯は凍りて食べられぬほどでありました。役人はこれを見て怖れ、またもとの同じ牢屋に置きました。

 それから人びとが、あまり病みますゆえに、蒲団のこと、米に水をあまり加えること、薬などのことについて、はじめの頃のごとく、してくださるように、七つのことを願いに役人のところに行きました。
 米に水を加えて米をふやすのは、この国の規則かと申しましたところが、この役人ひどく腹を立て、すでに打ちかからんといたしました。それから私は、この役人に遺恨に思われました。

 この池入りについては、甚三郎の手記にも詳しくのべられている。


津和野の記念碑
写真手前の池に仙右衛門は投げ込まれた

 11月26日、きんたの日(木曜日)朝六ツ刻に、仙右衛門どのと私と御用に呼び出されました。
 その時は、30日前より雪が降りつづきましたゆえ、竹林も松林も枝葉は地に下がりつき、その土地、畑におよそ2〜3尺も降り積りております。
 そのとき、裁判所の向うに4〜5間(7〜9m)ぱかりの池があり、その池に厚い氷が張っております。その池の縁に四斗桶を二つならべ、それに水をくり入れ、柄長の柄杓を添え、三人の裁判の役人、それに警固の役人5〜6人袴を高く引き締め、玉襷をしめ、私ども二人をひき出しました。
 ちょんまげの頭に巻いたる紙のこよりも切りのけ、着物も褌も取りのけ、二人を池のへりにつれて行き、「さあ、入れろ」というや否やに、どんと突き落しました。
 その時、氷は破れ、あちこち泳ぎて廻れども、深くて背はとどかず、真中に浅きところあり、私はあごまでつかりました。
 天を仰ぎて手を合せ、サンタ・マリアに訴(祈願)の御とりつぎを頼み、ジェズスの御ともを願い、仙右衛門さんは、天にいますの祈りをなさる。私は身を献げる祈りを申しまする。その時、役人申すに、「仙右衛門、甚三郎、天主が見ゆるか。さあ、どうじゃ」と、あざけりました。そして顔に水をくりかけ、くりかけ、息もつけぬばかりになりました。
 それよりだんだん体は冷え凍り、震いがきまして、歯はがちがちになり、そこで仙右衛門どの申さるには、「甚三郎、覚悟はいいか。私は目が見えぬ。世界がくるくる廻る。どうぞ私に気をつけてくだされ。」
 もはや息が切れんとするときにあたりて、役人が「早くあげろ」といいつけました。
 その時、警固の役人「早くあがれ」と申したれど、「いま宝の山に登りておるからは、この池よりあがられん」と、いうておるうちに、三間(5.5m)ばかりの竹の先に鈎をつけ、鈎の先に髪毛を巻きつけ、カにまかせてひき寄せました。
 それから氷の中よりひき上げ雪を掃き、柴束二つ、焚つけとして枯木を立てて燃や、二人の体を6人で抱え、その火にあぶり、ぬくめ入れ、気付けを飲ませ、本づかせ(正気)ました。その時の苦しさは、何とも申されませぬ。
 この津和野の池での氷ぜめは言語に絶する厳しい責め苦であったことが、この甚三郎の手記でよくわかる。

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