4、復活後の迫害(2)

 5)楠本、中野両外務権大丞の巡見
  1871年1月27日(陰、明治3年12月7日)英国代理公使アダムスは、金沢、大聖寺富山諸藩頭けの浦上キリシタンが残酷な取扱いを受けているという外字新聞の報道を取り上げて、右大臣三条実美、外務卿澤宣嘉に待遇改善の申し入れを行った。
 政府は虐待の事実を否定したが、アダムスが納得しないので、弾正台に命じて実情調査をさせることとし、関一郎を金沢に出張させた。
 関の出張中に、アダムスから、駐日英国外交官を派遣して実地調査をしたいとの申し入れがあった。政府は拒否したが、再度アダムスの申し入れが三条右大臣、副島参議、澤外務卿に対して行われた。そのうち関一郎が金沢藩参事世良太一をともなって帰京したので、その実情報告によって、アダムスに説明したけれども、納得するところとならなかった。
 3月9日(明治4年1月20日)政府はついに、アダムスの要求を入れることになった、3月11日、新潟駐在英国領事ジェームス・ツループは金沢、大聖寺、富山預けキリキタンの実情を調査せよというアダムスの訓令を受けた。政府は外務少丞水野良之をツループに同行させることにした。(この前後のことについて、日本外交文書に多くの資料が収められている。)
 ツループ、水野の合同調査は4月11日開始された。その結果、キリシタンの取扱いが過酷であった富山藩は、政府の譴責を受けている。水野少丞は調査報告のなかで、「一家分離したものを、一家族同居に頭け替えるように」と意見をのべた。
 5月11日、外務省は、この意見書を弁官に送り、また外国公使が他の諸藩の実地調査を要求することもあってはと、あらかじめ官吏を各藩に派遣して調査させることを建議した。
 かくして5月22日、外務大丞楠本正隆と、同中野健明とを巡見させる命令が両人に口達された。
 楠本は、名古屋、津、郡山、和歌山、姫路、鳥取、福山、松江、岡山、広島、津和野、山口の12藩を。中野は、徳島、松山、高松、高知、鹿児島の5藩を担当した。
 巡見要領については5月16日、三条右大臣から澤外務卿にあてて、9ケ条の案文が送られて来たので、両人はそれにもとずいて巡見心得6ケ条を作り、6月3日、弁官に提出して承認をえ、さらに7か条の「巡見大趣意」についての伺書を提出して承認された。

 以上三つの巡見要領は、その後の諸藩頭けキリシタンの処置案として重要な意味を持つものである。煩雑をさけてここでは述べないが、その内容を分類すれば、

  @ 教諭の実施
  A 異宗徒係の設置
  B 家族同居
  C 力役について
  D 衣食住の改善
  E 改宗者の処置
  F 病人、死亡者の処届

 これらの7項目について大改革が行われることになった。
 もともとキリシタンの取扱いについては、各藩まちまちで、藩によっては取扱いに迷うというようなこともあったので、1870年6月15日(明治3年5月17日)刑部省で「徒場大略取扱方」をつくって外務省に送った。
 8月24日には外務省案ができたので、神祇宮と刑部省に送って意見を求めている。
これが弁官の承認をえて、各藩に布達されたもののようである。
 この「取扱方」が、そのまま行われておれば、「家族分離」以外の条件については、そんなに過酷だとはいいがたい。政府が外国使臣団に対し、ことあるごとに、「過酷な取扱」はしていないと強調していることも当然であって、外国使臣団が過酷な処置として、「家族分離」だけを取り上げているのもうなずける。
 しかし実情は、各藩が刑部、外務両省の取扱規則にしたがっていないばかりでなく、ほとんどの藩で下役や、定職のないものなどを炊事夫として一任しているなどの状態であったために、キリシタンの取扱いも各藩それぞれ異なっていたばかりでなく、藩によっては酸鼻をきわめる取扱い方になった。アダムス公使の抗議が行われるようになったのはそのためである。それが動機になって楠本、中野の巡察となり、両人が作った「巡見大趣意」によって、各藩の取扱いが一変するにいたった。

 6)巡見に対する各藩の衝動
 この巡見は、各藩に少なからぬ衝動を与えた。内藤鳴雪の、つぎの回顧談は、松山藩の例であるが、各藩の事情を知るための資料となるであろう。
 この事件は明治4年5月に起ったもので、私はそのころ松山藩の権少参事を勤めて、学校課の主任であった。しかるに突然と外務権大丞の中野健明氏が、その属官と弾正台の小池某という官吏を従えて我が藩に出張せられるという達しを受けた。
 そこで藩庁では知事公をはじめ大小参事も列席して面会して見ると、その御用向きは、かつて本藩その他の藩に頭けられている長崎地方のキリシタン宗の信者を視察に来たということであった。
 一体、御維新の最初は神道一点張りで、仏教さえ廃止せしめられるかの噂があったが、それはかろうじて沙汰止みとなったくらいで、キリシタン宗徒のごときは飽くまで根絶せしむる御趣意で、それが改俊するまで厳重に諸藩に預けられたのであるから、このたび外務大丞あたりの、みずから視察せられるということは、すこぶる不審に思ったが、よく聞いてみると、近来は外国との交際上、キリシタン宗をも寛大に扱わねばならぬ事情になったので、そこで外務省から、この趣旨を伝えかたがた視察に来られたということがわかった。
 しかして、まず中野権大丞らをキリシタン宗徒の居場所へ案内せねばならぬことになったが、藩ではまだ維新当初の大政府の趣旨を奉じていたために、宗徒らを罪人同様に扱って、三津口の牢屋に入れてあって、かつ十余家族の男と女子供とを引き離して別の牢屋に入れてあった。
 中野権大丞は、そこへ来ると、ただちに牢屋のなかに入っていくから、その属貞はもちろん、私どももついて入った。実は私は牢屋のなかへ足を籍みこむということは、生れてはじめてであった。
 もっとも犯罪者とは違うから、いささか寛大にして牢屋のなかで、ちょっとした食物の煮炊きくらいは許してあったので、その大気に打たれて何だか蒸し暑く、悪臭が鼻をついた。
 中野権大丞は、すべてを巡視した末、私に向って、今後は、かようなところに置いてはならぬから、すみやかに相当の家屋に住まわせ、また一家族はそれを同居せしむることにするがよい。しかして改宗の説論は十分加えねばならぬが、その他はあまり厳酷な扱いをせず、随分いたわってやるようにとのことであった。

7)異宗徒取締の改善
 これら巡見の結果、楠本、中野らがキリシタン取扱いの改善を勧告した。
 中野は、9月3日(陰7月19日)楠本は9月8日、それぞれ帰京し、報告書を提出した。それによると、巡察方法、各藩の取扱いぶりを政府の方針に添って統一、改善しようとした苦心の跡がよくうかがえる。

 @ 教論についていえば、それまで藩士、神官、僧侶などが、まちまちに行っていたのを、特に異宗徒係をおいて強化した。
 「旅の話」のなかに、「楠本(あるいは中野)の巡察後、拷問はなくなったが、説論はきぴしくなった」ということが各藩について見られるのは、このためである。

 A 異宗徒係の設置、異宗徒係は、各藩の高官か、藩儒、あるいは、神官の有能達識の者が任ぜられた。

 B 家族同居は早くから外国使臣団の主張するところであったが、この巡察の結果、ようやく実施された。しかしそれは、同じ藩に流された家族だけがまとめられたものであって、異なった藩々に分散したものは、そのままである。
 また、信仰堅固で、教諭のさまたげになるようなものは、隔離された。それは、楠本、中野両巡見使の承認の下に行われたことである。

 C 力役については、それまで行われていた重労働(岡山藩が鶴島の開墾をやらせたような)を緩和し、禁固だけにせず、自由に日雇いなどに出すことにした。
 津和野では一合三勺の食糧が二合となり、やがて三合になった。恐しい責めも、うるさい説法もなくなった。

 D その他、衣食住、病人の処置など一般には楠本、中野の巡察後改善され、死亡年月、埋葬地など太政官に報告せねばならないようになった。

 改心者は、はじめから信仰を守っているものとは隔離されて、待遇もよく藩によっては、その優遇ぶりを非改心者に見せて改心を誘うことを意図したところもあった。
 改心者は信仰を守ったものより約1年早く、1872年3月14日(明治5年2月6日)帰村の布達が出た。この時、帰村したのは、1,011名である。しかし、この人びとも、ほとんど大部分は後に改心もどしをして、信仰をとりもどした。

 8)岩倉遺外使節団と外国世論の抗議
1871年12月17日(明治4年11月6日)伊万里県(佐賀県)管下の高島、蔭の尾島、伊王島、神の島、大山、出津、黒崎の村々(明治4年12月、これらの村々は長崎県に移管)のキリシタン67名が捕えられ、12月19日投獄された。

 中野、楠本両外務権大丞の巡視と、待遇改善によって、一応浦上キリシタン問題が落ちついた直後、またも新しいキリシタン弾圧事件が起こったのだから、欧米の世論を刺激した。
 このキリシタン投獄から4日後の明治4年11月12日、岩倉具視を団長とする使節団が横浜を出帆、アメリカに向った。安政条約の改訂期を翌年7月1日にひかえ、不平等条約改訂の瀬踏み、地ならしのためである。右大臣岩倉具視を正使に、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳を副使に48名の全権団に、上田てい子ら5名の女子留学生が同伴していた。

 1871年12月別日付長崎発行の外字新聞に、伊万里キリシタン事件をとりあげた論説があるが、それには「先年の捕り方(浦上キリシタン事件をさす)のように、いままたキリシタン信徒が捕縛されたについて、文明国の人々は同情と悲嘆を禁じえない」との言葉で始まり、「日本の使節団(岩倉全権団)がすでに出帆したが、各締盟国に到着の上は、各国から苦い抗議をこめた飾りことばで、よくおいでなさったと挨拶されるだろう」と皮肉で終っている。
 2月9日にはロンドン・エンド・チャイナ・テレグラフ紙にイギリス公使パークスの意見が掲載、12日の同紙は、"キリシタン迫害によって日本の名誉は失墜した"と強調した。

 外国使臣団のうち、まずこの事件を問題視したのは、長崎駐在英国領事マルクス・フロウルスで、長崎県に申し入れを行うとともに、イギリス公使に報告した。
 イギリス公使アダムスは1872年1月13日、副島外務卿を訪ねて真相を質したが、外務省でも事情を知らず、「委細の事は分らず候」と返答している。19日外務省は太政官正院に資料の提出を求めた。

 これらの事情を岩倉大使は知らなかった。全権団は1872年2月4日(明治4年12月26日)アメリカのソルトレータ市に到着して、タウンゼント・ホテルに投宿したが、ここでニューヨークの新聞を見て、はじめて伊万里事件を知った。
 そして同市出発、ワシントンに向かう途中の列車の中で2月22日、アメリカ公使デ・ロングから注意を喚起されたのである。
 同日付で三条太政大臣に送った手紙で、「この節柄の儀、この一事は、実に残念の事に御座候」と述べた。
 山口副使もまた副島外務卿に手紙を送り、「僕等命を奉じて条約改正の箇条中にも最も苦心する事件に候処、前載の如き事件差起り候ては各国の嫌疑も有之……深く案じ痛み罷り在候」とのべた。
 こうして事件は外交上の重大問題化したので、伊万里県では1872年1月31日(明治4年12月22日)「教論の実効相顕候に付き」という、もっともらしい理由をつけて、全員不改心のまま釈放した。
 事件はかくして一応落着したが、大使らはまだそれを知らなかったので、前述のごとく大いに心配していたのである。事件は解決したが、それをきっかけとして、浦上キリシタン流罪に対する欧米の世論は一段と硬化して、キリシタンの釈放が要請されるようになっていく。

 全権団と米政府の対立
 1872年3月3日(明治5年1月25日)アメリカ大統領グラントの全権大使団接見のとき、「そもそも、わが国の人民に富強と幸福とをもたらしたゆえんのものは、外国と交際し……、出版の自由を奪わず、人の信仰良心を束縛せず、宗教に寛容を与えることについて、わが国民のみでなく、この国に住む外国人にも一切の制限を設けなかったからである」といって、日本におけるキリシタン禁制を解くことの必要を勧告した。
 3月16日、全権団と国務卿フイシュとの会談で、フイシュも大統領と同様のことを述べ、条約中に信教の自由について規定したいと言ったが、全権団は「わが国政府は、今日大いに進歩に向かっているし、わが人民も各自の公権を尊重することを知っているから、条約に規定する必要はない」と主張した。
 けれども国務卿は、「将来、貴国政府に登用される人が、この言論と信教の自由に反対であった場合でも、条約に規定しておけば助かると思う」と主張する。
 全権団は、「宗教のことまで条約に規定する必要はない」と両者の意見はますます対立した。そしてついに、アメリカ側は、伊万里事件と浦上事件を持ち出したので、木戸副使は「これは外国とは関係のないことだ。宗教は交際と貿易との利益を増進することには関係なく、条約上に規定する必要はない」と反論した。
 アメリカ側は「宗教の呵責をやめた後でなければ、自由な交際はできがたいものなのだ。また特定の宗教について申すのでなく、宗教一般について寛容を希望しているのである。」と言い、日本全権団は「日本では宗教に対する呵責を行っていない」と言明したので、国務卿は今後の保証を求めたところ、「条約以外の方法でこれを保証したい」と答えた。この会談のなかで、木戸副使は「英米仏とその他の諸国との合議で呵責を行わないように決定している」と言い、また国務卿が「1869年の合議以後の2年間に違反の事実が少なからずある」と反論した。
 その合議というのは、1870年1月19日(明治2年12月18日)高輪応接所で、英米仏独公使らが三条大政大臣、岩倉右大臣、沢外務卿ら政府首脳部と談判したことを指すもので、その席上、政府は、「信徒の家族を離散させず、土地を没収したりしない」ことを表明している。
 これらの会談における両者の主張を見ると、日本側はあくまで宗教問題を和親通商と切り離し、国内問題として処置しようとしているのに対し、国務卿らの見解は信教自由の尊重を根本原則として考え、キリシタン禁制のまま治外法権を撤廃すれば、在日外国人の信教自由も脅かされるにいたる恐れがあるとし、信教自由を認めず、弾圧を加えることは、近代文明国家のなさぎる非道な行為であって、対等の条約を結ぶべき近代国家とは認めがたいとしたようである。
 このように信教の自由そのものについて、アメリカと日本との見解が対立している。日本で行われた外国使臣成とのたびたびの交渉内容からも察せられるように、日本側の、キリシタンは国禁の宗教であって、その信徒は「犯法」の徒、当然重刑に処せらるべき者という思想は、250年の歴史につちかわれた頑強さをもっていたのである。

 欧米巡遊の教訓と成果
 しかし結局、条約中にそれを規定することの必要を日本側も認めることになった。
帰国した伊藤、大久保両副使は全権委任状の請求のため、5月1日(陰3月24日)に入京し、翌日太政官正院に登庁して委任状を請求すると同時に、4か条の改正条約要旨を提出した。そのなかに、

1,日本の法律中に、外教の明禁なしと雖も、尚高札に其の禁令を掲示するを以て、外人は一概に自由信仰を妨ぐるの野蛮国と見做し、対等の権を許すことを甘んぜず。故に此の高札の禁令を除くこと。の一条件がある。
 すなわち、条約改正のための談判開始後、全権団の最初の改正要旨に早くもキリシタン禁制高札の撤去が要求され、翌年、岩倉大使の要請によって、それが実現することになった。
 6月23日から3日間かかって全権団は「大日本・合衆国、新定条約並附録草案」を作り上げた。これは日本側の最終案であったが、その第10条につぎのような条文が見える。
 「両国の人民は互の地方に於て、其の信教に付き最も十分なる安全を占むべし。
且つ其の国の法律古例を当然に尊敬する以上は、其の宗旨信仰の事故か、或は自宅又はそのために設ける他の場所に於て相当なる礼拝を行うの事故を以て、之を煩わし、之を妨ぐる事なかるべし。」
 稿なったのは25日で、7月10日アメリカ政府に手交したが、この第10条はほとんどアメリカ案と同文で、信仰の自由を認めている。

 英国政府の勧告
 全権団は8月17日(陰7月14日)ロンドンに到着した。ここでもキリシタン弾庄政策が指摘された。11月27日、英外相グランウイルと会見の際、外相が「現今、英国と日本との政体に、大きな相違があるのは宗教禁制のことです。
 日本で相変らず、厳禁しているので、私に手紙をやって貴官との談判を止めさせようとしている者もあるほどです」と言ったのに答えて、岩倉大使は「宗教のことは一応申し上げて置きたいと思います。300年前、天主教がわが国に入り政務の妨げになるので、ついに大禁令が発せられました。
 旧習の久しきゆえ、また天主教の何たるかを知らずして、これを忌む者がありますけれども、一度解禁の令を出せば国内の人心を損う恐れがあるのです。しかし開港の時から絵踏を廃止し、信徒を厳罰にはしない今日、たとえこれを奉じても政治に害なきかぎり咎むることはありません。ついには寛恕の時にいたるべきことと思います」と述べた。
 すなわち外相は、キリスト教迫害中の日本とは条約改正談判を中止せよという国民の建言もあるが、日本が信教の自由を認めることによって、対日感情も好転するであろうと言い、岩倉大使は、日本のキリシタン禁制も近くゆるむであろうと答えたのである。
 こうして、欧米いたるところで宗教弾圧の非を指摘されているうちに、全権団の見解にも変化が起りつつあった。

 伊藤博文の見解
 1872年(明治6年)1月2日(明治5年12月3日を明治6年1月1日として太陽暦を用いる)伊藤博文はパリから大隈参議、副島外務卿に手紙を送ったが、そのなかで、各国政府の意向は、西教(キリスト教)を忌みにくむという、東洋旧来の風習を懸念する心が脱け切らないようである。法律の寛厳を論ずるよりも、旧習に固着して、政治までも偏頗の処置になることを恐れている様子がうかがわれる。
 現今、学者の議論などは、ややもすれば宗教の害を論ずる者も数多くあるけれども、一般人心はけっしてそうではない。……宗教のことは、ただ黙許して法律上で区別しないのを根本としたがよいと思う。……現に高札等の耶蘇の禁令あることはよく熟知するところであるから、我が国で宗教は黙許であるなどと西洋人にいうことはできない。……また事実に基き理屈を推して考えると、国家が禁令を掲示し、それが行われなければ国威は立たない。また、誠心赤子を安んずるという訓えにも恥ずべきことである。
と、いう意味のきわめて実際的な意見をのべて、「宗教の禁のごときは、我が国民を圧制するだけで、外国人の我が禁令を犯しても、これを防ぐことはできなかった。
 阿片禁止令のごとく、自国民と外国人とを問わず犯す者は、どちらも処罰できるようでなければ禁令とはいいがたい」として、禁教のまま治外法権を撤廃するときは、かえって国威を傷つけるといい、開国と信教の自由とは、相ともなうべき理を説いた。
 伊藤博文のこの意見が、信教の自由の本質的理解によったものというより、むしろ政治の実際、損益の上に立った考慮であったとしても、ここまでの思考に達したことは、欧米巡遊の効果であった。
 1月24日、仏外相レミユサとの会談、2月13日、ベルギー蔵相モローとの対談にも、この問題は出た。
 ベルギーではプラッセル市民が、大使らの馬車に押し寄せて、浦上キリシタンの釈放を叫び、フランスでは有名な東洋学者レオン・パジエスが、「日本におけるキリシタン迫害と日本の遣欧大使」という報告書を仏国議会に提出して、デーパッセン・ド・リシュモン伯が、日本キリシタンの釈放について議会で演説した。このように、宗教弾圧は各国で問題にされた。それほど日本のキリシタン弾圧は欧米に悪名高かった。

 9)キリシタン禁制高札の撤去
 幕末、浦上キリシタンに対し「祖法」による強硬な態度をとった幕府が、外交折衝の間に、キリシタン観もかなり変化し、「当今に至りては蛇蝎の如く嫌悪するに及ばず」(小笠原壱岐守)「他日開明の域に達せば決して外教を拒まず」(平山図書頭)と、考えるにいたったように、明治政府も、軒昂たる意気をもって、はじめたキリシタン弾圧を止め、キリシタン邪教政策を修正せざるをえなかったのである。
 こうして岩倉大使の要請により、1873年(明治6年)2月24日、太政官布告第68号をもって、キリシタン禁制の高札を撤去し、3月14日太政官達をもって「長崎県下異宗徒帰籍」が命令された。1614年(慶長19年)にはじまったキリシタン禁制は、262年ぶりに、その効力を失ったのである。
 高札の撤去は、欧米人の強硬な批判と外国政府の勧告に動かされ、条約改正達成の打算の上に実現したと見るべきであろうから、信教の自由と近代性とが、明治政府に体得されたものではなかった。それはいろいろな形で政治のなかに現われてくるので、早くもその年の11月9日、英国公使は、日本政府のこのような態度を遺憾とする文書を外務省に送っている。
 しかし、とにかく、それが実質的には信教の黙認となり、日本の思想的発展を推進することにもなり、我が国の政治の近代性を高めることにもなった。
 そして明治22年の大日本帝国憲法に信教の自由が規定されることになるが、尾佐竹猛博士のご研究によれば、それは、浦上キリシタンの流罪と因縁があるといっている。
 これは憲法制定のときの伊藤博文の意見の中に見られる。「その国君或は政府で、その国人民の天有の公権を束縛し、或は奪うなど野蛮の風習は固より禁ずる所」という思想が、帝国憲法第28条の信教の自由条文となって具体化したのである。

 10)浦上キリシタンの釈放
 キリシタン禁制の法的根拠は、ただ高札文だけであったから、高札の撤去によってキリシタンを追放、投獄する理由が失われ、浦上キリシタンは釈放帰村することになった。早く行った人は6年、おそく行った人でも4年という長い間、遠い異郷の地で饑渇、拷問、と説得に堪えて信仰を守り通したのである。
 思えば、これらキリシタンたちに負わされた苦難も、日本の近代化への、さけえない犠牲であったであろうか。そうでもあろう。しかし、それよりもキリシタンたちは、貴重な生命(旅の間に613名が死んだ)や、幕府からも、明治政府からも奪われることのない、財産よりさらに貴重な精神的価値を守り抜いたことに、大いなる喜びを感じていた。