2020
インターネット版
すべての人が食べて満腹した
(マタイ14・20)
 発行所 カトリック浦上教会
 評議会 広報委員会
 メールアドレス
 uracathe@hkg.odn.ne.jp
 
目次
片岡さんと深堀さん、そして
  ― 被爆七十五年 ―

初聖体おめでとう
被爆体験記
評議会だより
今月の典礼担当地区
聖母の被昇天を迎える大清掃
浦上四番崩れ
今月の聖人
浦上街道
赤鉛筆


主任司祭 ペトロ 久志 利津男
小学生13名が初聖体
深堀繁美氏と清水 淳氏の体験記
行事などのお知らせ
8月と9月の典礼当番
信徒会館、教会境内、浦上の聖地十字架山
「旅」の始まりから150年特集(19)
家族で霊名の日を祝いましょう
司祭への道のり「助任時代」(26)
編集後記
片岡さんと深堀さん、そして
  ― 被爆七十五年 ―

主任司祭 ペトロ 久志 利津男
 1995年、今から25年前、被爆五十年の節目にカトリック教報8月(811)号は「被爆五十年を見据える」と題し特別版で発行しています。私が編集長就任2年目の時です。
 この中で、特に注目すべきは二人の被爆者が語り部として学校を訪問しその感想文の一部を紹介、もう一つは島本大司教様と3人の方々を交えた座談会を掲載していることです。
 前者はシリーズ被爆五十周年「未来に向けて」の見出しで、次のリード文で始まっています。「教報社では、片岡ツヨさん、深堀柱さんのお二人を語り部として招き、それぞれ聖母の騎士学園(高校2年生)と長崎精道学園(中学生女子)で被爆体験を語っていただいた。現代の中高生が50年前の戦争・被爆をどのようにとらえ、その思いを未来へとつなげていくのか、その声の一部を紹介する」。
 さらに4面では、「座談会 被爆地長崎の教会を思う」とタイトルを掲げ、その趣旨説明があります。「被爆五十年を記念し、教会内外で活躍している4人の方々を迎えて、座談会を行なった。テーマは『私と被爆五十年』。核兵器廃絶が叫ばれる中、被爆地長崎の信者がこの半世紀をどう過ごして来たかを振り返りながら、21世紀に向けて教会が、若者がどうあるべきかを大いに語ってもらった」。 小見出しが対談者の思いを十分に伝
えてくれます。島本要大司教「目的は手段を正当化せず」 片岡千鶴子修道女「祈りの長崎の意味とは」 本島等「身近にある平和づくり」 筒井茅乃「8月9日を祈りの日に」。
 教区の歴史を記録し、紙面を介して信仰生活の一躍となればとの思いで編集に関わった25年前のこと。文字にする責任を背負いながら苦労はしましたが、この6名の方々と被爆五十年を機に関わりあったことが私にとってどんなに宝となったことでしょうか!
 語り部のお二人と一緒に学校を訪れ、その話に聞き入っていた中高生は40歳前後となっています。どうしているでしょう? 感想文が紹介されているS君は立派な社会人として活躍されているに違いない! Nさんは置かれたところで咲いているだろう、と思いは尽きません。
 座談会では永井隆さんの最愛の娘・茅乃さんと初めてお会いしました。被爆後、医者として奔走し晩年は病床の中にあって執筆活動に勤しんだ永井さんの心の宿・浦上教会で私が「いま」こうしていること、またこれも計らいなのかもしれません。
 被爆七十五年。時は次第に刻まれていきます。25年前にかかわった片岡さん、深堀さん、島本大司教様、本島さん、そして筒井さんは天に召されていきました。永遠の安息をお祈りします。
初聖体 おめでとう
 7月19日(日)9時30分のミサで初聖体を受けた子どもたちは次の方々。大山仁君、谷山結斗君、塚本凌太君、平山康雅君、深堀一樹君、魚見龍臣君、魚見龍稀君、伊藤桜さん、浦越結花さん、下田依周さん、平川夕芽さん、山田咲南さん、森田麻里乃さん、以上13名でした。
 尾髙神父様主司式のもと久志主任神父様、宮原神父様、葛島神父様の共同司式で小学生の初聖体式が行われました。コロナウイルス感染拡大、天候も地球環境も不安定の中だからこそ、イエスさまは子どもたちの中に喜んで来てくださいました。
 5月連休明けの週から教会学校が開始され、水曜日を初聖体クラスの勉強にあて6月からは毎日曜日に家族揃って七つの秘跡の中のゆるしの秘跡と聖体の秘跡について学びました。
 今はイエスさまに直接会えませんが、イエスさまは、たくさんのお恵みをいただくことができる方法を「秘跡」として残して下さっていること、わたしたちがこの秘跡を受けるとき、それを授けてくださるのは神父様や司教様だということを学びました(子どもからパパ様は?と微笑ましい場面もありました)。また、現在教会学校に掲示しています「七つの秘跡と人生の歩み」表を使って、わたしたちの天国までの人生の歩みの中に「秘跡」の宝石が沢山ちりばめられていることや、いつも一緒にいてくださる神さまの心と思いを学び合うことができました。
 その他ミサの流れや「ミサの意向」袋の用い方、祈りの所作と「カトリック祈祷書」の使い方などを学び合いました。学んだことを毎日お家で工夫をして実践してみるなど、信仰生活の基本を再確認しました。これを神さま時間(神さまとお話しすること=祈り)と呼んでいます。
 初聖体直前の3回の日曜日は、3人の神父様によってさらに準備を整えてもらいました。全家族が出席し学び合う姿には、先祖たちが家ごとに支え合って信仰を生き伝えてきた姿勢が今も根付いていると確信しました。
 学びの中で、イエスさまを信じてついていく親の姿を垣間見、神さまから任せられた使命を保護者らは再確認し、子どもたちを神さまの愛の心(信仰)で育ててきたこと、そして育み続ける決意をもっている「信仰共育」を個人や保護者間でふりかえることができたようです。天国まで皆で行くためにも一人一人が回心を通して、大切に伝えたいものを再認識し感謝の気持ちに変えられた時でした。
 また、「ご聖体」はカトリックの洗礼を受けていることが条件で、2名の小学生は約1年間教会学校に通い初聖体の2週間前に洗礼の秘跡を受け神さまの子どもになりました。そして今日、他の11名の子どもたちと一緒にイエスさまの御からだをいただくことができました。

 ここに、その子供たちの感想と初聖体式代表のあいさつを記載します。

●「ごせいたいをはじめていただいておもったことは、おいしかった。うれしかった。たのしかった。ぱん おいしかった。またたべたいな」
             (おおやま じん)

●「はじめていただいて うれしかったです。おいのりをまいにちします。」 (たにやま ゆいと)

●「ごせいたいって こんな あじなんだと おもいました。ごせいたいをいただいて、きょうから ぼくがじっこうしてみたいことは、えいしょう、しとしんじょう、アヴェ・マリアのいのりをおぼえることです。ありがとうございました。」
            (ふかほり いつき)

●「ごせいたいをもらって、こころがうれしかった。きょうからやってみたいことは、はしること、がんばるぞ~。おいのりをおぼえること。」
           (つかもと りょうた)

●「ごせいたいをもらってうれしかったです。おいのりをがんばります。」  (ひらやま こうが)

●「ぼくは、せんれいをうけました。そして、ごせいたいをもらいました。これからは、はやおきをがんばります。せをのばしたい。」(うおみ たつみ)

●「イエスさまのあじがした。」
             (うおみ たつき)

●「イエスさまがきて うれしいです。げんきにあそびたいです。」      (いとう さくら)

●「イエスさまのおめぐみをいただき、うれしかったです。まいにちおいのりします。
            (うらこし ゆいか)

●「ごせいたいをもらってうれしいです。いもうとを だいじにしたいです。」 (しもだ いちか)

●「おいのりをもっといえるようになりたい。なるだけミサにさんかする。いえのおてつだいをする。おりがみをつくれるようになる。」
             (ひらやま ゆめ)

 初聖体の子どもたちは、「密」を避けるために長時間の集いはしませんでしたが、両親への感謝に似顔絵カードとあめのネックレスをプレゼントし、尾髙神父さまから初聖体証明書と教会の記念品をいただきました。そして感想文を書き終え感謝のうちに恵みを携え、次のミサで会う約束をして散会しました。

 初聖体式のために、たくさんのご協力をいただきました。子どもたちの送迎のために初聖体関係の保護者とそのご家族、信仰教育委員会、ロザリオ工房みかえるの皆さん、ありがとうございました。また、物資の差し入れやお祈りで支えてくださった皆さん、積極的にお手伝いくださった信徒の方々、典礼奉仕をしてくださった教会学校の子どもたち、教会学校スタッフの皆さんにも感謝申し上げます。一つ一つの点が恵みでつながった瞬間でした。次世代の子供たちの心身の成長をこれからも浦上教会共同体で見守ってください。
 いつくしみ深い神さまと教会共同体に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

    初聖体を受ける子供たちの紹介
     「よろしくお願いします」


  2020年7月7日 尾髙師により洗礼式
 ペトロ 魚見龍臣くん ペトロ魚見龍稀くん
        家族とともに
      おめでとうございます。

2020年5月13日(水)からはじまった初聖体勉強会。
 6月から親子で神父様方のお話をききました。
 最後は7月12日(日)久志主任神父様のお話。
 保護者からも感謝と決意の言葉がのべられた。

●「ふしぎな あじがした。こんなあじなんだとおもいました。」        (やまだ さな)

●「イエスさまをいただいて、うれしかったです。しっかりお祈りをおぼえて、ぜんぶ言えるようになりたいです。」        (もりた まりの)

 さらに、初聖体式代表あいさつでは、1年生のいとうさくらさんが、

 きょう、はじめてごせいたいをいただきました。ずっと、たのしみにしていたので、みなさんとおなじようにごせいたいをいただくことができてとてもうれしいです。
 これからもわたしたちひとりひとりのなかにきてくださったイエスさまにかんしゃし、ごせんぞさまにならってしんこうをふかめ、かみさまのこどもとしてあかるくげんきにすごしていきます。
 きょうまでおせわしてくださったしんぷさま、シスター、きょうかいがっこうのスタッフのみなさん、おとうさん、おかあさん、ありがとうございました。そして、しんじゃのみなさん、きょうのはつせいたいしきをいっしょにおいわいしてくださってありがとうございました。
   はつせいたい だいひょう
           1ねん いとう さくら



        待ちに待った
        7月19日(日)
       初聖体をいただいた
     13名の子どもたちと神父様方
      おめでとうございます。
被爆体験記
深堀繁美氏と清水 淳氏の体験記
 被爆75年にあたって、過去に掲載した深堀繁美氏、清水淳氏の被爆体験記を再掲載しました。

 「私の被爆体験記」
            本尾 深堀繁美

 昭和20年、私は大浦に在った羅典神学校の神学生で、中学3年生でした。神学生は、教区立の東山手に在った東陵中学校に通学していました。当時は、学校での勉強は皆無で、勤労学生として三菱造船飽の浦工場で、魚雷発射管製作に従事していました。殆んど毎日警戒警報が鳴り響く中を、大波止より飽の浦桟橋まで通っていました。空襲警報だと出勤しなくていいので、早く空襲警報が鳴らないかと思いながらの毎日でした。
 8月9日も警戒警報でしたので、いつものように仕事をしていました。早く空襲警報になれば仕事をせず、ゆっくりできると思いながらの仕事中、閃光と爆弾がすぐ近くに落ちたようなすごい音がしたので、とっさに訓練されていたとおり、すぐ目と耳を塞ぎ、床に伏せました。
でも天井からスレート瓦の割れたのが落ちてくるので、痛さと怖さでままならず、皆と一緒に工場内にあったトンネルに逃げました。逃げる時、敵機から機銃掃射されるのじゃないかと空を見上げた時、北の方に黒雲を見たが、後でそれが原子雲だったようです。
 立神の戸外で仕事をしていた人達が、幾人も身体を真っ白にして通っていくので、何故だろうと思っていたが、それは太陽に当たっていた人はヤケドをして、ヤケドの薬を塗ってもらった人でした。立神は爆心地から5㎞以上離れていた人達でした。浦上の人で、壕の中にいた人はヤケドはしていなかったが、10日しないうちに死んだということです。壕の中に放射能が充満していたと思われます。
 夕方になって、学生は帰れるようになりましたが、船で大波止に渡って大浦の神学校まで熱いガレキの中を帰りました。夜遅くなって、浜口町の町工場で働いていた先輩4名がヤケドを負い、金比羅山を越えて帰ってきましたが、翌日亡くなりました。
 翌10日は、浦上出身の神学生10余名は、家族の安否のため昼から浦上まで約5㎞、熱いガレキの中を歩いて向かいましたが、途中、電車は下の台だけで、白骨あ
り人や馬、牛など真黒になり、パンパンにふくれて死んでいました。道らしい道はなく、地面が熱いので8月の暑さも感じない程でした。
 爆心地の傍の川の脇を通って来ましたが、あの川には真黒になった人が折り重なっていました。生きているのか死んでいるのか分かりません。人の足音を聞きつけて時々水、水と言う声が聞こえますが、皆さん水を求めて川に来たのでしょう。でも、水の見えない程の人の山でした。そして、水をやると早く死ぬのでやらないようにとの噂が流れていました。
 松山の下ノ川の処で浦上天主堂の塔が見えなかったので、私の家も駄目と思いました。ただ新型爆弾とは聞いていましたが、こんなにもひどいとは想像もつきませんでした。普通の爆弾だったら自宅は天主堂がカバーしてくれるので大丈夫と思っていました。
 原爆では、姉2名と弟・妹の4名が爆死しました。母は小さい時に亡くなっていましたし、兄は兵隊でしたので、後日帰って来ました。父は赤迫の兵器工場(防空壕)にいたので助かっていました。
 天主堂は缶のはじける音が聞こえていましたので、川沿いを高尾の方に廻って天主堂の裏手に来ました。自宅跡で父と再会した時、涙一滴流れませんでした。悲しみを通り越して、ただ呆然としていただけです。
 父は、教会の南側の防空壕で、近所の数人の生き残った人と住んでいました。ヤケドした人もいたし、元気な人もいました。レンガで作ったカマドでお湯を沸かしたのを飲ませてもらいましたが、夕方神学校に帰って間もなく下痢が始まり、3日間程食事も出来ませんでした。何が原因かは解らずじまいでした。
 まわりの山、金比羅山、岩屋山、稲佐山は全て赤茶けてしまい、緑は全然ありませんでした。そして70年、この土には草木は生えないとも言われていましたが、年を越した頃には新芽が見られるようになりました。
 戦時中の食料は、一食に小さいイモを5~6個、又は大豆を一握りと小さい乾パンを10個位、また大豆の油を絞り出した大豆カスを水に漬け、やわらかくして火を通したものが日常の食事でした。
 教会には楽廊に非常用として米と缶詰が保管されていたので、米がくすぶっているところから取り出して、父達は食べていたとのことでした。缶詰は、パンパンはじけて近づけなかったようです。
 神学校には食料がありませんでしたので、5~6日して身の回りの品物を持って大山に歩いて移動しました。当時は、食べられるものであれば何でもよかったようです。
 9月になって米兵が長崎に上陸するということで、北松の田平に疎開しました。列車は佐世保の南風崎までで、そこからは徒歩でした。保育所が神学生の宿舎で、修道院の稲刈りの手伝いをしておいしい米メシにありつけました。田平は10月までいて、又大浦の神学校に帰って来ました。
  戦争は残酷なもの
             辻1 清水 淳

原爆の惨状
 8月9日は朝警報が鳴ったので学校は休み、近所の仲間数人と浦上天主堂へ聖母被昇天のための告解に行った。聖堂には数10人の信徒が2人の神父様に赦しの秘跡を授かっていた。私共が終わったのは10時半ごろだったろうか。まだ聖堂には30人余りの人達がいた。帰宅したのは11時ごろだった。すると「キーン」という変な音がして「ピカーッ」と目がくらむほどの光が走った。近くに大きな爆弾が落ちたと思ってその場に伏せたがあとはよく分らなかった。
 気付くと10mほど離れた炊事場まで飛ばされて上から壁や梁や屋根の瓦礫が落ちてきてその下敷きになっていた。もがくことも出来ず息も絶え絶えで苦しくもう駄目かと思った。幸い裏が隣組の防空壕で近所の人達がなだれを打って避難に来た。その中の元気な人に救い出されたのである。出てみて驚いた。家が滅茶苦茶である。壁は倒れ、建具は吹き飛ばされ、屋根は剥ぎとられ空はまる見えである。外へ出ると細い角材や雨戸や板などが落ちてきていた。爆風で吹き上げられた砂埃で、全体が霞がかったようで視界ははっきりしなかったが、見渡すかぎり家は一軒も建っていない。大木は折れ電柱は倒れ草葺の屋根の麦藁は飛散り一面を覆っている。すると小雨が降りだした、でもそれは石油だった。匂いですぐに分かった。原爆を落としたうえに石油まで撒いたのか、鬼畜米英の残虐な行為にただ空を睨むばかりだった。
 道を行く人達は無傷の人はほとんどなく、全身大火傷した人、満身創痍で血に染まった人、よくそれで生きておれるなあと思うほど大怪我した人達が西山の方から浦上の方へ向かってきていた。
 原爆が落ちて1時間は経ったろうか、爆心地方面は火の海となった。炎が何10m立ち昇っただろうか、正に天を焦がさんばかりであった。その燃え盛る炎の中から悲鳴が聞こえてくるのだ。私みたいに家の下敷きになって逃げることが出来ず生きながら焼かれていく何万人という人達の断末摩の叫びである。どよめきのように聞こえてくるのだ。私はその時の事が今も脳裏に焼き付いている。怪我人達は近くの浦上第一病院で手当てをしてもらうつもりだったのだろうが、病院はレンガ造りではあったが中は燃えていておそらく医療器具や薬品など焼失したに違いない。それに肝心な医療関係者も無事だったかどうか、よしんば無事であったにしてもこの惨状だ、手の施しようもなかっただろうと思われる。
 我が家では母が重傷を負っていた。左半身にゾーッとするほどのガラスの破片が無数に刺さっていた。取れるだけ取ったが深く刺さっているのは無理すると途中で折れたり激痛で失神状態になったりして危険な状態だった。薬はなくアロエ等で傷口を塞ぎゲートルを解いて応急措置をしたがほんの気休め程度のものだったろう。しばらくして兄が帰って来た。稲佐を通っていて被爆したらしく全身大火傷して山越えして随分苦労して帰って来たらしく焼け爛れてひどい状態で見分けが付かなかったが声を掛け合って兄と云う事が分った。疲れ切った体を防空壕に横たわったまま虫の息であった。
 防空壕の中には20人程がいた。怪我人も数人いた。幼児が2人火傷し親にすがって泣いていた。咽喉が乾くのだろう「水・水」と言っていたが井戸はツルベが落ちて汲めず、飲める水は一滴も無い。周りの人達もどうすることも出来ずにいた。壕の中は怪我人のうめき声と幼
 児の泣声で騒然としていた。明け方には静かになっていたが2人の幼児はすでに死んでいた。親は死んだ子供を抱きあげ嘆いていた。飲みたかった水も飲ませてやれずに済まないと言って…。
翌日は快晴だった。浦上は一面が焼け野原であった。灰は雪が積もったように見えた。この中には何万人という人達が生きながら焼死しているのだ。自分達の近い親族や親しかった友人知人が多数いたに違いない。
 浦上第一病院の北側の空地には累々と夥しい遺体があった。おそらく昨夜まだ息があるうちに担ぎ込まれた人や自力で辛うじて辿り着いた人達であろう。如何に戦争とはいえこの残忍な殺戮に只呆然自失の体で涙も出なかった。
 昼近くになって空腹を感じた。昨日の朝から何も食べていないのだ。炊事場を漁っていたらコメビツがあった。水を数100m先の山麓の湧き水を汲んで来て炊き始めた。すると敵機が飛んできた。急いで火を消して防空壕の中に入った。これ以上の危害を加える事もないとは思っていても習慣で何度も繰り返し2時間近くもかかってやっと炊きあがった。早速にぎり飯にして皆に配った。皆喜んで食べてくれた。元気な人達や軽傷者達は一旦自宅に帰って行った。
うちの隣組は10軒ほどの集落で、老人子供を除いた大人の男女10人程の人達は軍需工場に勤めていたがその半数の人達は帰らなかった。身内の人達は勤め先へ何日も通って随分探して廻ったが遺品さえ見付からず落胆していた。
 農作業していた老人たちが、光線をもろに受けて全身大火傷をして、瀕死の重傷で帰宅出来ない人もいた。周りの人達は協力し合って怪我人の手当てや死体の処理など、連日の事で憔悴しきっていた。でも皆肩を寄せ合い僅かばかりの食料を持ち寄り分け合いながら数日を過ごした。8月15日の昼下がり近所の一人が息急き切って駆付け「日本は戦争に負けたとげな」と告げた。皆ビックリして大きなショックを受けたに違いない。天皇の玉音放送があったと聞き、半信半疑の人達も被爆地の状況を見て納得したようだ。
戦争の始まった日も終った日も聖母の祝日であった事は偶然であったろうか?
 あれから60数年、戦後の新しい憲法によって外国との戦争はなかった。現在の憲法は戦争による多くの犠牲の上に築かれた世界に誇る平和憲法である。故に憲法は護るべきものである。今国会は憲法論争で護憲か改憲かで喧しい。
何彼と理屈を付けて憲法9条2項を変えて軍隊を持ち何時でも戦争が出来るように準備しているように思われてならない。
 教会では憲法9条を「世界の宝に」と標語にさえなっている。国民も武力で平和が築けるとは思っていない。我々被爆者は戦争の残虐さ平和の尊さをよく認識し二度と戦禍を見る事の無いよう常に念じているのである。
評議会だより
【8月】

(2日)宮原神父様(聖ドミニコ)霊名のお祝い
    (祝日8月8日)9時30分ミサ
    尾髙神父様(聖ガブリエル)への
     霊的花束ご協力のお願い    <信使>
    評議会 19時           <本部>
(6日)主の変容            <典礼>
(7日)初金ミサ(女性部担当地区:坂本1・2)
                    <本部>
      十字架の道行 19時        <本部>
(9日)原爆犠牲者追悼ミサ 6時     <典礼>
    平和祈願ミサ 11時2分・18時30分
                    <本部>
(11日)クララ祭 18時30分
      大橋のたもと        <本部>
(12日)ノルベルト赤尾神父様命日
(15日)聖母の被昇天          <典礼>
     子供たちへのお菓子のプレゼント
       各ミサ後     <壮年会・女性>
(16日)浦上小教区への転入者紹介
        9時30分         <シャロ>
(20日)旅の日 記念ロザリオ
     「旅する教会の神秘」5時30分 <典礼>
【9月】

(4日)初金ミサ(女性部担当地区:辻1・2)
         10時          <本部>
    十字架の道行 19時        <本部>
(6日)2学期始業ミサ・始業式
          7時30分        <信教>
    評議会 19時           <本部>
(8日)小学生勉強始まり         <信教>
(12日)中学生勉強始まり         <信教>
(13日)十字架山殉教祭 14時        <典礼>
(14日)十字架の賞賛 6時       <典礼>
(20日) 旅の日 記念ロザリオ
     「旅する教会の神秘」5時30分 <典礼>
     敬老者、病気療養者のためのミサ
      病者の塗油の秘跡
          9時30分        <本部>

     敬老会 9時30分ミサ後      <本部>
(26日) 秋の遠足            <信教>
(27日) 聖ビ・ア・パウロの祝日
      SSVP会員・家族のためのミサ <ビン>
     尾髙助任神父様(聖ガブリエル)
      霊名のお祝い(祝日9月29日) <信使>
※ 行事は変更、中止される場合があります。
 今月の典礼担当地区
《8月》

2日[日] 年間第18主日         本尾1
6日[木] 主の変容
9日[日] 年間第19主日         本尾2
15日[土] 聖母の被昇天          本部
16日[日] 年間第20主日        江平1
23日[日] 年間第21主日        江平2
30日[日] 年間第22主日        江平3
《9月》

6日[日] 年間第22主日      坂本1・平野
        被造物を大切にする世界祈願日
13日[日] 年間第24主日          坂本2
14日[月] 十字架称賛
20日[日] 年間第25主日           平和
27日[日] 年間第26主日         岡・小峰
       世界難民移住移動者の日献金
聖母の被昇天を迎える大清掃
信徒会館清掃

 7月5日(日)9時30分ミサ後、壮年会と女性部主催に依る恒例の信徒会館清掃が行われました。梅雨の蒸し暑い日でありましたが、熱心な方は予定時間より早くから始められるなど、多くの方々の参加をいただき、それぞれの担当個所の清掃にご奉仕されていました。中にはお母さん、おばあちゃんを手伝う子供たちの参加もあり、将来教会の中心となって活動してくれるであろう姿をうれしく思いました。

 今回の清掃ではきれいにすることにあわせて、壊れている所や点検の必要な箇所のチェック、備え付け備品の不備の確認も行われ、問題個所は主任神父様へ報告され、できるところから改善されることになっています。
 信徒会館は既に30年が経過しております。聖堂と同じように傷みが目立ち、不具合の箇所も増えてきています。教会の収入が減少していく中で、新しくする事も必要ですが、今あるものを大切に使っていく事も必要だと感じています。
境内清掃

 7月19日(日)梅雨の合間の天候に恵まれ、朝8時30分より境内清掃が行われました。
 担当地区の皆さんは、早い方は7時頃から清掃作業を始められ、境内の石垣やマリア様のご像の周りなどを手際よく清掃し境内はすっきりと整えられました。多くの信徒の皆さんのご協力ありがとうございました。心から感謝致します。お疲れ様でした。
 
十字架山清掃 
 7月19日(日)早朝7時過ぎから、辻1の皆さんが集まり恒例の十字架山の清掃作業が行われました。前夜の激しい雨も上がり少し湿り気味の天候でしたが、地区有志の方が事前に芝草の刈り込みを済ませて下さったおかげで清掃作業はスムーズに完了しました。
 植木の間の草むしり、下草の処理・運搬など、やぶ蚊にかまれ汗だくになりながらも、地元の聖地十字架山は見違えるほどきれいになりました。
 今年も又沢山の皆さんのご協力で和気あいあいの楽しい清掃作業でした。
浦上四番崩れ
「旅」の始まりから150年特集(19)
 「備前(岡山)」
       に行った人たち①

 岡山に流されたのは主に本原郷平と辻の人たちで、総員117名でした。
 1870年1月5日、戸主20名は他藩へ流される人たちと同船して長崎を出港しました。婦女子は7日に西役所に召喚され、翌朝大波止から汽船で岡山へ直航、14日に児島湾に入り、川船に乗り移って浜野村に上陸、松寿寺に収容されました。戸主は婦女子より7日程遅れて岡山に到着、直ぐに市内の牢獄に収容されました。松寿寺の15歳以上の男子も、この時戸主たちの牢獄に移されました。

        浜野の松寿寺

 岡山で最も苦しんだのは食物で、一日わずか3合の大麦しか与えられず、大抵の若い男子は弱り、説得で改心を勧められると一たまりもなく倒れる者が多く出ました。これに老人たちは心配し、自らの食を減らして若者に与えましたが難しかったようです。松寿寺の婦女子は、男子に比べて食料は割に良かったものの、毎日360メートルの縄をなうという激しい労働が課せられました。

       鶴島の殉教者墓地

 1870年11月、一同は城下から約50キロ離れた無人島「鶴島」へ送られました。収容所は新造藁葺の長さ七、八間(約14メートル)の長屋で、百余名には窮屈で足を伸ばす場所もありませんでした。
 翌日から苦役が始まりました。周囲一里の無人島の荒地を開墾するもので、男は八坪、女は六坪ずつが毎日の割当てでした。そして、一日の労働が終わって長屋に着くと、役人は不改心者を呼び出しては改宗をせまり、応じなければ後ろ手に縛り、庭の梅の木に吊るして、棍棒か竹の鞭で散々に打ち殴られました。こうした酷遇にも、開墾した畑にできた野菜は全て役人によって刈り取られ、一同は触れることさえ許されず、与えられる食物は相も変わらず半つきの麦飯だけでした。
家族で霊名の日を祝いましょう
<今月の聖人>
 8月 August

 1日 聖アルフォンソ(リゴリ)司教教会博士
 4日 聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭
 8日 聖ドミニコ司祭
10日 聖ラウレンチオ助祭殉教者
11日 聖クララおとめ
14日 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ
                 司祭殉教者
20日 聖ベルナルド修道院長教会博士
21日 聖ピオ十世教皇
22日 天の元后聖マリア
24日 聖バルトロマイ使徒
27日 聖モニカ
28日 聖アウグスチヌス司教教会博士
29日 洗礼者聖ヨハネの殉教
 9月 September

  3日 聖グレゴリオ一世教皇教会博士
  8日 聖マリアの誕生
 10日 日本205福者殉教者
 16日 聖コルネリオ教皇、
     聖チプリアノ司教殉教者
 21日 聖マタイ使徒福音記者
 23日 聖ピオ(ピエトレルチーナ)司祭
 28日 聖トマス西と15殉教者
 29日 聖ミカエル、聖ガブリエル、
     聖ラファエル大天使
 30日 聖ヒエロニモ司祭教会博士
 浦 上 街 道

             久志 利津男
司祭への道のり

     「助任時代」(26)

 あっという間の1年。先の6年を入れての7年に及ぶ助任生活は今にして見ると、とても意義あるものでした。生まれた雛鳥が独り立ちするまで親鳥が育てていくような環境だったことが今になって分かります。いよいよ主任司祭として、大海原に出向く時が近づいてきました。
 その1ヶ月前に島本 要大司教様から内示をいただき、「果たして何処の主任か!」と夢膨らませていたある日、1年前に送られてきた同じ封筒が届きました。「あなたを三ツ山教会の主任とする」との辞令です。場所はともかくもこれで一教会の責任者となることへの期待と不安の思いが交差する中、何度もこの文書を読み返
しました。その夜、ゆっくりと休むことができたかはわかりませんが、動揺していたことは確かです。ところがです。状況は一変しました。
 翌日、大司教様から電話が入りました。「久志神父様、転任辞令届きましたか? 事情があってその辞令は撤回しますので破棄してください。あなたを諫早教会の主任とします。」「エッ!? ハ、ハイ・・・」。何が何だかの思い。実はこうです。諫早教会の田中千代吉神父様は体調が優れず、大きな教会での司牧が困難で、病院に近い教会を希望し、三ツ山教会がそれに適していることから私との入れ替わりとなったわけです。
 偶然なのか、はたまた運命のいたずらなのか! 結果的にはこうして今を過ごしています。何事もそうですが、もしあのことがこのようであったらどうなっただろうと思うばかりです。
 被爆75年の夏を迎えようとしている。しかし去年の今頃イメージしていた原爆の日とはなんとかけ離れたスケジュールなのだろうか▲中学校への入学手続きの折に渡された入学までの宿題の中に読書として渡されたのが高木俊朗氏著『焼身』だった。小学校6年生にとってはとても難しく全く読めなかったのを思い出す。なので江角先生が再び学園を復興された真意などわかるはずもなかった▲今から7年前、8月8日19時。浦上教会にて原爆犠牲者のためのスピリチュアルコンサートが行われた。そこで披露されたのがG.フォーレ作曲『レクイエ ム』。その時ボーイソプラノに息子を推薦してくださったのが今年「平和の誓い」を発信される深堀繁美さんだった。全く声楽を習っていなかった当時の息子はかなり苦労していたのを思い出す。本番前日「もう練習はした。失敗するかもだけど教会で歌うからとにかくお祈りしながら歌うね」と言った。語り継ぐことは難しい。しかし私たちが、子どもたちが何らかの行動を起こすことで振り返ることはできるかもしれない。『過去を振り返ることは将来に対して責任を取ることです』今一度教皇ヨハネ・パウロ二世の平和アピールを黙想したい。