|
|
目次
浦上を生きる者
司祭・助祭叙階式
「司祭の日」記念ミサ
教皇来日・来崎から一年
九電工さん清掃奉仕ありがとうございます
評議会だより
今月の典礼担当地区
「天主堂の歴史」の紹介板リニューアル
浦上四番崩れ
今月の聖人
浦上街道
赤鉛筆 |
協力司祭 パウロ 葛島 輝義
今年3月20日につづき二度目の司祭、助祭叙階式
9名の司祭の70年.60年.50年.25年.新司祭を祝う
あの時の感動が醒め止まない
皆さんの素敵な汗のおかげで心もきれいに。感謝。
行事などのお知らせ
11月と12月の典礼当番
「旅」の始まりから150年特集(22)
家族で霊名の日を祝いましょう
司祭としての道のり「主任時代」(1)
編集後記 |
浦上を生きる者
協力司祭 パウロ 葛島 輝義
|
次の瞬間さえ判らないような暗闇の中に住む人々もいる世界をよそに、初老の男は荘厳な浦上の丘に立ち、独り物思いに耽っている。中町から赴任した日の野山の新緑は紅葉へと変わりつつある。いつのまにか、半年という時が過ぎ去っていた…。
その間、何とか司祭としての使命を果たそうとするも、どんなにか失敗と無能さを晒したことか。世代こそ違うが、浦上には3人の有能な司祭がいて、見事な司牧ぶり―。病を抱え、半ば死に被ったような男が来なくても、充分に事足りていた筈―。恐縮のかぎりである…。
9月の中頃、信徒の方に、ミサの司式や説教をしなくなったことを問われ、答えに窮したことがあるが、協力司祭は、司牧そのものより、健康回復が優先されるというのが教区長の見解である。とは言え、現場はそう単純に割り切れるものでない…。
10年前の急性心不全に端を発し、投薬と関連した重い皮膚炎、強い動悸がもたらした転倒による脊髄損傷等、度重なる心臓の手術、電気ショックによる治療は男に十字架を想起させたことである…。若い頃には、鉄人とさえ呼ばれ、肩で風切って歩いたりしていた男の日常は、根本からひっくり返された―。通院や制限食、ミサ中に襲う無気味な症状は男を寡黙にして来た…。それは、生と死を境とした病を経験した人にしか理解されな |
いであろう。滅多なことで口にできるものでもない。唯、年度の途上で屍になるようなことだけは避けたい…。「小さな群れよ、恐れるな(ルカ一二・32)。」とのキリストのメッセージは、恐れず、この厄介な病とも仲良く付き合うことを促しているようにある…。
実に、人の生と死は、個人の意志を超えた大いなる神様の意志・神様の命の流れの中にあることを、男はこの浦上で改めて知らされることになった。男の赴任直後、6人兄弟姉妹の末の弟が先立ったのである。男と同じく心臓を患っていた弟は、妻と小学生の息子を残して、何か急ぐように逝った。49だった…。生前、弟が男によく言っていたのは、「洗礼の代父、大事な兄さんが、いざという時は僕が仕切るから―」だった。幼い頃、男の背に負われた弟の恩情だったのだろう―。一時は、男の方が危険だった。こうして、男が浦上を生きるのは、やはり、大いなる神様の意志を感じざるを得ない。弟が背にいる気がする―。
漁夫や教師や土建等、多くの職で身を立てて来たものが通じない現実もあるが、幸いにも、所属する広報・歴史委員会、評議会、事務室、典礼、さらに身を案じ、心を寄せてくださる方ありて、今に至る…。暗く、先行き不透明な世にあって、司祭の前に、人間であることをもって、浦上を生きる者である。 |
司祭・助祭叙階式 |
10月11日(日)15時から浦上教会において、髙見大司教司式で、シモン稲田祐馬助祭(八幡町教会)が司祭、ヨセフ鼈甲屋賢治神学生(宝亀・中野教会)が助祭叙階の式に臨みました。
昨年、助祭叙階の稲田助祭はこの4月から福江教会で奉仕し、鼈甲屋神学生は昨年の10月に出身の中野教会で祭壇奉仕者に任命を受けていました。
式に先立ち、福江教会主任・中村 満神父は召命減少が顕著になっている中、こうして叙階の恵みをいただけることに謝意を表わし「長崎教区には未来があるという父なる神の確かな約束と受け止めています。未来を担う子供たちが、今日の大きな恵みのお裾分けをいただき、二人の後に続くようにと願います」と前置きし、第2バチカン公会議の『教会憲章』から「助祭は、秘跡の恩恵 |
に強められて、司教および、その司祭団との交わりの中で、典礼とことばと愛の奉仕において神の民に仕える」と説き、また『司祭の役務と生活に関する教令』を引用して「司祭の任務は、第一に、神のことばの役務者、第二に、諸秘跡と感謝の祭儀の役務者、第三に、神の民の指導者である」と諭しました。そして司祭の生き方と宣教司牧生活の指針はヨハネ福音書の「私の父は今もなお働いておられる。だから私も働く」という言葉で受階者を激励しました。
本来なら多くの参列者となるのですが、今般の情勢から人数の制限の中、この喜びを届けるために映像での配信も同時に行なわれました。
アンゼラスの鐘に合わせて、司祭団と受階者が入堂。髙見大司教の挨拶で叙階ミサが始まり、み言葉の祭儀の後、助祭そして司祭叙階式へと続き、無事に新助祭と新司祭が誕生しました。
今後、稲田新司祭は福江教会で助任司祭として司牧に専念し、鼈甲屋助祭は大神学校で来年の司祭叙階のための準備を行なうことになります。叙階後に配られた新司祭の記念のご絵は「恐れるな 語り続けよ 黙っているな わたしがあなたと共にいる」と記されています。
いよいよ来年の春には3人の司祭叙階が予定されています。召命のためにお祈りください。 |
「司祭の日」記念ミサ |
今年は、4月7日の聖香油ミサの時に行われる「司祭の日」記念ミサが中止となり、10月12日(月)10時30分から浦上教会で改めて行われた。
今年、教区内で司祭叙階の節目に当たる神父様方は、プラチナ祝が原塚師・ダイヤモンド祝が下川、山内、西山師・金祝がビィタリ師・銀祝が川原、辻原師、新司祭が青田、稲田師の9名で、山内、西山師の他、7名の出席だった。また、神父様方の略歴やお言葉の紹介は、カトリック教報今年3月号に詳しく載せてあるので割愛させていただいた。
説教の中で髙見大司教は「健康に気を付け、使命を果たす心構えと理想を持って司牧し、キリストに倣い良い司祭になるよう努力してください」と述べ、記念品を贈られた。
中村補佐司教も「初心に帰り、健康に留意し、現在から未来へと歩いてほしい」と祝いの言葉を述べられ、 |
また、女性部から神父様方に花束が贈られた。
原塚師は叙階記念日を目前に帰天されたが、主治医の竹下先生や賄いの寺田さん達に見守られ元気で、昨年12月、96歳の誕生日ころまではこの浦上の地に自分の足で来ておられ、中村補佐司教の叙階式にも出席されました。 |
教皇来日・来崎から一年 |
忘れもしない、朝から稲光と大雨、しかしビッグNスタジアムでのミサは汗ばむ程の晴天。故ヨハネ・パウロ2世教皇様の来崎から38年にして、フランシスコ教皇様がこの長崎の地を踏んだ。あれから一年が経とうとしている。時の過ぎ行く速さを実感しながらも、まだあの時の感動が醒め止まない思いでいる方々も多いことだろ |
う。
今般の情勢で、新しい生活様式や信仰様式に変わらざるを得ない中、様々なイベントや典礼行事は中止・延期となり、開催実行でも縮小された内容となった。本来なら、教皇様の来日・来崎を受けて、実りある平和活動なり更なる福音宣教に勤しんでいるのだが、現実はどうなのか。同時に、かつて教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日を受けて「平和旬間」が始まったように、今回の教皇来日のテーマ「すべてのいのちを守るため」を旨に日本司教団が9月1日から10月4日までを『すべてのいのちを守るための月間』と定め、今後も毎年実施していくことにした。
このような情勢だからこそ、私たちに寄せられている期待は大きいと思う。そして長崎・浦上の私たちなりにどのように計らっていくかは自ずと分かるのではないか!
もし、訪日が今年で計画していたなら、教皇様の来日・来崎は実現していなかったであろう。 |
九電工さん
清掃奉仕ありがとうございます |
先月、10月14日(水)朝9時より、㈱九電工さんの社会貢献活動の一環で、浦上天主堂の清掃に約100名の方々が汗を流しご奉仕をしていただきました。これは「さわやかコミニュティー旬間」と題して『ありがとう、日頃の感謝を届けます』との標語に沿って、九州各地の色々な場所で清掃奉仕の活動を続けておられます。福岡では大宰府天満宮などで清掃作業をされておられます。
さすがに大企業の方々きっちりとした作業工程の中、作業連携を取り、境内外の草刈り、ごみ拾い、ステンドグラスの清掃をキビキビと、当たり前のようにおこなわれていました。
何よりも、九電工さん特有の電柱電線工事などに使用する高所作業をするための特殊作業者により天主堂の高い位置のステンドグラスを丁寧に掃除している姿に感謝と大きな感動を覚えました。
昨今の明るいとは言えない社会情勢の中、皆様の素敵な汗とかろやかなフットワークに心の清掃もしていただいたように感じました。
作業を終え、ご奉仕していただいた皆様にささやかながらお茶と菓子パンをお渡したところ、素敵な清々しい |
笑顔で有難うと返してくれました。忘れられない時となりました。 |
評議会だより |
【11月】
(1日) 諸聖人 <典礼>
長崎教区司教座聖堂献堂
記念日・記念ミサ 18時30分 <教区>
信徒会館原爆遺物展示室
オープニングセレモニー 18時
<本部>
評議会 9時30分ミサ後 <本部>
(2日) 死者の日 6時 <典礼> (3日) ベアトス様殉教祭 <本部>
16時 橋口町記念碑前
雨天時 橋口町集会所
(6日)初金ミサ(女性部担当地区:大手、扇)
10時 <本部>
十字架の道行 19時 <本部>
(8日)死せる会員のためのミサ
9時30分 <壮年・女性>
教会境内清掃 8時30分 <信生>
雨天時11月15日
(9日)ラテラン教会の献堂
6時 <典礼>
(11日)旅の日 記念ロザリオ
5時30分 <典礼>
(15日)貧しい人のための世界祈願日 <典礼>
第3回堅信組保護者会
9時30分ミサ後(信教)
浦上小教区への転入者紹介
9時30分 <シャロ>
(15日~12月13日)
釜ヶ崎ホームレスのための
毛布・日用品収集
9時30分ミサ後 信徒会館 <ビン>
(22日)王であるキリスト <典礼>
永久聖体礼拝
①10時30分~
②11時20分~
③12時10分~
<典礼>
(28日)クリスマスツリー点灯式
17時30分 <信教>
(29日)待降節第一主日 <典礼>
クリスマスうまや準備
13時 <壮年> |
【12月】
(4日)初金ミサ(女性部担当地区:大橋・昭和)
10時 <本部>
十字架の道行 19時 <本部>
(5日)堅信組筆記試験
17時30分 教会学校 <信教>
(6日)宣教地召命促進の日献金 <典礼>
評議会 19時 <本部>
(8日)無原罪の聖マリア(浦上教会守護の聖人)
6時 <典礼> (11日)旅の日 記念ロザリオ「旅する教会の神秘」
5時30分 <典礼>
(12日)クリスマス会
13時~16時 <信教>
堅信組口頭試験 17時30分 <信教>
(13日)2学期終業ミサ・終業式
7時30分 <信教>
釜ケ崎ホームレスのための
毛布・日用品(タオル、石鹸など)発送
9時 <ビン>
(21日)ゆるしの秘跡
(24日)主の降誕 聖夜ミサ
18時30分、21時 <典礼>
(24日~25日)
降誕祭を祝って子供たちへ
お菓子のプレゼント <壮年・女性>
24日 18時30分ミサ
25日 7時30分ミサと9時30分ミサ
教区評議会主催クリスマス募金への協力
各ミサ前後 <本部・ビン>
(25日)主の降誕祭日(守るべき祝日)
ミサ 7時30分、9時30分 <典礼>
(27日)聖家族 <典礼>
行事は変更・中止される場合があります。 |
今月の典礼担当地区 |
《11月》死者の月・待降節
1日[日] 諸聖人 上野2
長崎教区司教座聖堂献堂記念日
3日[火] ベアトス様殉教祭 本部
8日[日] 年間第32主日 高尾A
15日[日] 年間第33主日 高尾B
貧しい人のための世界祈願日
22日[日] 王であるキリスト 本原
29日[日] 待降節第一主日 扇 |
《12月》待降節・降誕節
6日[日] 待降節第2主日 石神1・辻2
宣教地召命促進の日献金
13日[日] 待降節第3主日 石神2
20日[日] 待降節第4主日 大手・女の都
24日[木] 主の降誕聖夜ミサ 本部
25日[金] 主の降誕 本部
27日[日] 聖家族 辻1 |
「天主堂の歴史」の紹介板リニューアル |
教会の坂を登り上がった右側に「浦上天主堂の歴史 |
と由来」と題した大きな案内板がある。訪問者にとり、この教会の主な歴史を読み取ることができ、貴重なものでもある。
しかし、掲載内容に一部ミスが見つかり、また作成からだいぶ経過し、雨風の影響で表面の傷みや電気系統も不備になっていることから、この度、内容もより充実させての整備となった。
新型コロナウイルスの影響でここ数か月、訪問客は限られていたが、今般の情勢が落ち着き、平和学習のための子供たちを初め、次第に訪問客が増えつつある。リニューアルされたこの案内板は多くの方々にここ浦上の思いをしっかりと受け止めるに違いない。 |
浦上四番崩れ
「旅」の始まりから150年特集(22) |
「石州(津和野)」
に行った人たち②
「仙右衛門、甚三郎は氷責めに行う、十人は退れ」と物々しく役人は言渡しました。白州の前にある十畳ばかりの池は厳寒と大雪で、氷が張り雪が積もっていました。
警固の役人4名は、二人の着物をはぎ取り、スカプラリオは取り上げて土足で踏み付け、髪のこよりも日本でできたものだと取外し、赤裸にして池に突き入れました。その時仙右衛門は熱病を患っていました。池は深く、凍り付く中を泳ぎまわり中ほどの浅瀬にたどりついて、やっと首から上を出すことができました。そこに役人は白州から長い柄のひしゃくで水を被せます。二人は必死に最後の覚悟をして励まし合い、主の御力を祈りました。しかし、時間とともに舌の根はこわばり、声は細り、体を支える力さえなくなり、見ていた役人は慌てて二人に上がれと命じましたが、応じる力はありません。役人たちは竹のカギを頭髪に巻き付けて二人を引き上げ、直ぐに説得を始めました。しかし、二人の心は動きませんでした。仙右衛門は病気の為牢へ帰し、甚三郎は |
他の者の改心を妨げるとのことでそのまま三尺牢へ投げ込まれました。翌日、友八、惣市、国太郎たちが水責めを受けましたが改心の弱音を吐く人はいませんでした。
1870年1月、境内に草葺きの新しい牢ができ、不改心で残った12名はそこに移されました。間もなく来ることになっている家族たちを本堂に収容するためでした。
家族152名は1870年1月に市役所へ呼び出され、平戸役人に引渡されて時津へ向かい、早岐、中里へて御厨村(みくりやむら)に20日間滞在した後、汽船で尾道へ送られ、それから津和野まで歩き、光琳寺本堂に収容されました。
家族たちもその日から減食され、説得も厳しくなって、婦人たちの中には、裸にされて寒晒しで終日環視されたり、婦女子は十字架を無理やりに踏ませようとする責苦を受けました。耐えかねて改心を申立てる者もありましたが大多数は最後まで頑張りとおしました。中には、馬場の末吉という12歳の少年は白州に呼出され、両手に油を注がれて燃やされ、後に牢死しましたが信仰を持ち続けました。 |
家族で霊名の日を祝いましょう |
<今月の聖人> |
11月 November
4日 聖カロロ・ボロネオ司教
10日 聖レオ一世教皇教会博士
11日 聖マルチノ(ツール)司教
12日 聖ヨサファト司教殉教者
17日 聖エリザベト(ハンガリー)修道女
21日 聖マリアの奉献
24日 聖アンデレ・ジュン・ラク司祭と
同志殉教者
30日 聖アンデレ使徒 |
12月 December
3日 日本宣教の保護者
聖フランシスコ・ザビエル司祭
7日 聖アンブロジオ司教教会博士
8日 無原罪の聖マリア
14日 聖ヨハネ(十字架の)司祭教会博士
26日 聖ステファノ殉教者
28日 幼子殉教者 |
|
浦 上 街 道
久志 利津男 |
|
司祭としての道のり
「主任時代」(1)
教会の転任は三浦町から飽の浦、そして諫早とこれで2回となりました。因みに今の浦上は7か所、これまでの司祭生活は36年目。この間、大事に保管している品は数多くあるのですが、その一つがミサ奉納記帳簿とその記録、そして叙階祝いや餞別を記したノートです。後者には名前と住所とその中身を明記。ここには記されていないのですが、目に見える或いは目に見えない形で私のことを心底から思って祈りと犠牲を捧げてくださった多くの方々が含まれていることも十分に承知しています。
辞令を受け取るとすぐに教区長に届いた旨を報告し、 |
着任後に落ち着いてから再度、手紙で就任挨拶をします。同時に大変お世話になった前教会にも万感の思いを込めて感謝の言葉をお出しします。当然ですが、叙階の祝いや餞別を頂いた方々にもお礼の手紙を送っています。小さい時に、伯父から「りー、人さまから頂いたらちゃんと礼を尽くしなさい!」と言われた事が影響しているのかもしれません。お中元やお歳暮など含め贈られてきたら、文書で、場合によっては電話でお礼を申し上げているつもりです。
今、助任司祭と一緒にいる中、司祭としてよき手本にはなっていませんが、私の経験を踏まえ「礼状を出すこと」は口にしています。かつての助任より新任地から届く感謝の言葉、何と嬉しいことか、地元の名産品が添えられている時は尚更です。
今から28年前。諫早教会に着任早々、餞別を頂いた方々にお礼の手紙を書き始めました。 |
|
新型コロナ感染症の終息はなかなか見通せず、この冬もインフルエンザの流行とダブルの感染が脅威となって予断を許さない情勢。世界中の新型コロナの感染者は既に4,200万人を超え、死者の数も115万人以上となっている。国内でも9.5万人以上が感染し、死者も1,700人を超えた。何時、誰が感染しても不思議ではなく、誰かが突然死亡していく悲しい現実が重たい▲横浜港に停泊していたダイヤモンドプリンセス号に乗船していた知人の話だと、帰宅後何回もPCR検査を受け、全て陰性だったにもかかわらず、SNS上での得体のわからぬ誹謗 |
中傷に悩まされたとのことだった。そんな理不尽な話を耳にする度に人間性が問われていると考えてしまう▲私はカトリック信者になって良かったなあとつくづく思っている。教会では「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」や「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を唱え、自己を反省し祈りを通じてお互いを思いやり、助け合って行く心を養い、育てて貰っている。
11月は死者の月。不幸にして亡くなられた方々やそのご家族へ思いを馳せてしっかりと祈りたい。 |