3、キリシタンの復活(教会復活)

 信徒発見のサンタ・マリア像

1)信徒発見
 1853年7月14日(嘉永6年6月9日)ペリの来航によって日本は鎖国の夢を破られた。
 翌年には、米、英、露との間に和親条約が結ばれ、1858年(安政5年)には米、蘭、露、英、仏との間に修好通商条約が締結された。日本の閉鎖的封建体制は、くずれはじめたのである。
 封建制と鎖国とキリシタン禁制とは幕藩政治の三本柱であった。一つがくずれると総くずれになる。250年間つづいたキリシタン禁制に終末が近づいたのであった。
 そしてそれは、1857年(安政4年)の長崎での絵踏廃止、翌年の通商条約で外人のための聖堂建立が認められたことから展開しはじめたのである。
 日仏通商条約の締結は1858年9月9日(安政5年8月13日)、その第四条に、居留地内に、フランス人のための礼拝堂建立を認める条文が規定された。
 こうして1865年(元治2年)大浦天主堂が建立され、異国風の建物に長崎の市民たちは目をみはった。
 天主堂という名は、カトリックの聖堂を中国風に呼んだものである。俗にフランス寺と呼ばれ、連日見物人でにぎわった。その見物人の中に、浦上の農民たちが混じっていた。
 天主堂の右側小祭壇に聖母子像が安置されていた。サンタ・マリアは浦上のキリシタンたちが300年の普から、ひそかに崇敬しつづけてきたものである。
 「フランス寺にはサンタ・マリアがいらっしゃる」というささやきが、その日のうちに口から耳に、キリシタンたちの間に広がったのである。
 イザベリナゆり、という婦人を中心に数人の男女が、浦上からそれを確かめにやって来たのは1865年3月17日(元治2年2月20日)のことである。プチジャン神父は祭壇前の床にひぎまずいて祈っていた。
 ゆりは、そっとプチジャン神父に近づき、耳に口をよせてささやいた。「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアノゴゾウハドコ?」
 この言葉が歴史をつくった。七世代250年潜伏していたキリシタンが宣教師の指導下に入ったのである。それはキリシタンの復活と呼ばれている。
 神父は立って、彼女たちを聖母子像の前に案内した。「サンタ・マリアさまだ。御子ゼズスさまを抱いていらっしゃる」と、浦上のキリシタンたちは口々にささやいた。
 かくして浦上のキリシタンが発見された。ひきつづいて、長崎県内だけでも数万人も潜伏していることが明らかになった。1614年1月(慶応18年12月)の大禁教令から251年にわたる、きびしい迫害と殉教の期間を潜伏しつづけたキリシタン教会は復活した。これは他国にその例を見ない出来事として、世界宗教史の上で注目されている。


浦上キリシタンたちはプチジャン師
に信仰を告白した

プチジャン神父
(後の長崎初代司教)

 2)プチジャン神父と信者代表との会見
 イザベリナゆり等が会見した大浦天主堂の異人が七世代250年間待ちわびてきた神父であることは、即日、浦上全村民に知れ渡った。陽3月18日から大浦天主堂の参観者が激増してきた。その大部分はもちろん浦上の信者たちであった。
 しかしまだ日本は厳重な禁教下にあった。役人の警戒もまた急にきびしくなった。けれども、信者たちの熱情が押えられるはずがなく、役人の目をかすめては天主堂に入り込んで、オラッショ(祈り)を誦えたり、神父たちと語をしたりするのであった。18日、19日、20日と早朝から信者が浦上キリシタンたちはプチジャン師に信仰を告白した来て参観者はいよいよ多く、役人は天主堂のすぐそばまで来て見はっていた。
 プチジャン神父は、ついに信者たちに、15日間は遠慮するようにいいつけ、神父の方から出て行って信者の代表と会見することにした。神父たちが知りたかったのは、250年間一人の神父もいないで伝えてきた、祈りや教義が正確であるかどうか。ことに洗礼が正しく有効に授けられてきたかということだったのである。
 23日金比羅山で、一本木の徳裁と会見、子が生まれると洗礼を授けて洗礼名をつけること、日曜日や祝日、四旬節など日繰りに従って教会の掟を守っていることなどを知ったが、徳蔵は水方でないので洗礼の授け方を知らない。
 役員にあやしまれない植木屋に、徳蔵が水方を連れて次の木曜日に来ることにしていたが、植木屋での会見は結局できず、4月8日、水方のドミンゴ又市が天主堂に忍びこんで洗礼方式について大体の説明をした。
 4月18日、神父は一本木の森林中に潜入し、又市や何人かの信者たちと会見、洗礼方式を詳しく調べることができた。「コゴ・テ・バプチゾ……」という、ラテン語の洗礼の祈りを又市が誦え、儀式の次第も説明した。驚くべきことに、それはほとんど正確であった。幾分祈りに異同があったが、意味は変わっていない。帳方吉蔵はすでに殉教し、水方も浦上四郷で又市一人が生き残っていたので、又市との会見によって、プチジャン神父は、浦上の村人たちの信仰状態を詳しく知ることができた。