18.教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日

 浦上天主堂は250年のキリシタン弾圧の中で、「何時の日か、ローマのパパ様より、お使いが来る」ことを信じて、その迫害に耐えた天主堂であり、そして世界唯一の被爆天主堂でもある。信者は二重、三重の苦しみの中から、天主堂を守り続けて来た。
 350年経過した今日、ローマからは、その使者ではなく、パパ様ご自身が「巡礼、司牧、平和の使者」として、私たちの天主堂を直接訪れてくださったのである。
 私たち浦上信者にとって、これ以上の感激、喜びはない。

1)浦上天主堂での叙階ミサ
 昭和56年2月25日午後6時、粉雪まじりの寒風が吹きつける浦上の丘に、信者の嬉しさに弾む心を表わすかのように、力強く嬉しそうに鳴り響く鐘の音に続いて、シスターや信者等の歓声と拍手の中、白いスータン姿の教皇様は何度も手を上げ、これにこたえられた。
 天主堂中央の扉が開かれ、ビバ! パパ! の合唱と共に入堂された教皇様は、歓呼で迎える参列者一人一人の手を握り、満面に親愛の笑みをたたえながら祭壇へとゆっくり進まれた。
 聖堂内は被叙階者家族、司教、司祭、シスター、浦上小教区の小・中学生、各小数区の信者等、約2,000人余の参列者で立錐の余地もない。
「皆さん、神聖な祭りを祝う前に、私たちの犯した罪を認めましょう。」……流暢な、声量あふれる力強い日本語に参列者一同感激した。
 教皇様は日本語での説教の中で、「この叙階式は、私の日本での使徒的旅行の頂点をなすものです」と、訪日唯一の叙階式の意義を詳しく、ご説明になり、更に、「長崎の信者たちが200年以上も一人の神父もなしに、天主堂もなく、公の礼拝もないとう不利な条件にもかかわらず、あらゆる迫害に堪えて信仰を守り続けたこと。私は深い感動をもって、その普、大浦天主堂で、長崎に着いた宣教師と浦上信者等との出合いを思い出します」と、長崎の信者の信仰を称えられた。
 なんとありがたい、身にあまる光栄でしょう。
 私たちは、このお言葉を胸に刻みつけ、神の証し人として、もっともっと毎日の生活に、この教皇様のみこころを生かしていかねばならないと痛感した。

2)浦上天主堂での修道女とのつどい
 2月26日朝、前夜からの雪は2cmの積雪となり、寒さは依然として厳しく、絶え間なく粉雪の舞う朝である。
 6時半開門の浦上天主堂には、6時前からすでに100名余の修道女の方々が正門前で寒さに堪えながら静かに開門を待っておられた。待ちに待ったパパ様とのご対面を思えば、寒さもなんのその、とのお気持ちが痛いほど感じられる。7時半の入堂時刻までには、約1,600名の参列者となった。
 8時にご到着のパパ様は、聖歌「ビバ、パパ」の流れる中、ジョバンニ! ジョバンニ! と手を差しのべるシスター方と握手をされながら、昨夜と変らぬ笑みをあらわされ、祭壇前の椅子に御着席になられた。
 修道女一同を代表して、汚れなき聖母の騎士修道女会のシスター中山和子さんが、ポーランド語で「カトリック信者の少ない日本に、教皇様が来られるのは奇跡と考えていました」と歓迎の挨拶をなさった。
 パパ様は、ジーッ! とお耳を傾けておられたが、ポーランド語での挨拶は大変嬉しく、お心をなごませたことでしょう。次にパパ様はお立ちになって、英語で約20分間、「祈りこそ、キリストと結ばれた絆。祈りのない修道生活は無意味になります。祈りの精神の活力を通して皆さんの役割りに忠実であり、内的には自分の主体性を守り抜くこと、外的には皆さんの存在の真の意義が認められることを喜びとし、マリア様が皆さんの導き手でありますよう祈ります」と修道女を励まされ、 その後、日本語で「祈りましょう。私は皆さんの為に、皆さんは私の為に、神に感謝」とお話を結ばれた。
 そして、一同立ちあがり、パパ様と共に聖歌「サルベ・レジナ」を合唱し、最後にパパ様の御祝福を頂いて、意義深い集いは終った。

 3)教皇歓迎集会(松山競技場での野外ミサ)
 2月26日長崎は史上はじめての猛吹雪である。午前6時噴から歓迎集会場には教皇様との出合いを待ちこがれた信者たちが続々と詰めかけ、式が始まる30分前の午前9時頃には早くも4万7,000人が入場し、場内のフィールドもスタンドも人波でびっしり埋った。
 信者たちは容赦なく降りしきる吹雪に頬を打たれ、寒さに震えながらも、辛抱強くパパ様を待ち続けた。
 絶え間なく降り続ける雪におおわれた会場は、一面銀世界。パパ様がオープンカーで回られる場内通路の真紅のジュータンも、特設祭壇の周囲に飾られた花も、雪にすっぽりおおわれた。
 遠くは北海道をはじめ、全国各地から集った老若男女、国際色も豊かな人々の群にも、容赦なく雪は降りそそいでいた。「一目パパ様に会いたい」「パパ様は必ず来られる。その事を望みに耐えて来た」という人など、人各々様々の思を胸に。またパパ様を、まのあたりにできるという思いを持った大群衆で、場内は脹れあがった。「パパ様は今お着きになり、オープンカーに……」とのアナウンスに入口付近を中心にワーッ! と、どよめく歓呼の声。
 9時35分、聖歌隊を中心に「うわさにさそわれ」の前奏に合わせ、真白なオープンカーに乗られた教皇ヨハネ・パウロ2世が、会場にお姿をあらわされた。「100年待ちたるこのよき日を、慈愛の眼差し、もろ手をあげてパパ様自ら訪ねたり」と聖歌は一段と高らかに響きわたった。「ビバ! パパ」の大歓呼と拍手。
 日本とヴァチカン両小旗の揺れる中、真紅の帽子に真白のスータン姿のパパ様は柔和な笑みを満面にたたえ、両手を大きく上げて一人一人を祝福しながら、ゆっくり場内を一周半して特設祭壇にのぼられた。
 教皇様は黄金色の祭服を身にまとい、教皇冠をつけ、司教杖を持たれ、中央祭壇後方の玉座に着かれた。
 里脇浅次郎枢機卿がカトリック信者を代表して、「教皇様、ようこそ長崎へおいで下さいました。私たち信者は4世紀を越えて、おいで下さるのをお待ちしていました。その希望がかない、感謝でいっぱいです」と、ラテン語で歓迎の挨拶をされた。
 午前10時、教皇ミサが始まった。「さあ、殉教者の為にみんなで祈りましょう。」とボリュームたっぶりのお声である。日本語でのミサに、信者たちは思いやり深いお心遣いに感激を新にし、パパ様と一つ心になって殉教者の為に深い祈りを捧げた。

 教皇様は説教を通して、「キリストに対する忠実さの模範の中で、希望と愛のうちに、信仰を守り殉教していった立派な先祖に習い、愛のうちに立派な行いを育てて行って下さい」とさとされた。
 ミサ中に、60名もの方々に洗礼と堅信の秘蹟の授与があり、教皇様は吹きさらしの特設祭壇で、一人一人の額に聖水を注ぎ、聖油を塗って親しく授けられた。酷寒の中、教皇様は大変お寒いことだったでしょうと、その御苦労が偲ばれる。
 ミサ終了後、階段を降りられる前に、「皆さん、今日はよく忍耐しましたね。今日の集合は、殉教地長崎にふさわしいものでした。神に感謝」と参列者一同に声をかけられた。この思いやりあふれるお言葉一つで、参列者の寒さや疲れは、いっぺんに吹き飛んだことでしょう。
 確かに冷たく寒く、一部に病人は出たものの、やはり神様のお力の偉大さを強く感じたものである。パパ様はご自分の冷たさ、寒さはさしおいて、先づ参列者のことをお思い下さるこのお気持は、神様のお気持の表われでなくてなんでしょう。

 4)教皇訪日一周年記念ミサと胸像除幕式
 ミサが始まる前に、浦上天主堂正面入口右側に設置された教皇様の胸像が、一年前に教皇様より叙階された古巣馨、岩村知彦、烏山邦夫の3師によって除幕された。
 昭和57年2月28日午後4時、里脇浅次郎枢機卿、司教、司祭団70名の入場に続いて一周年記念ミサが行われた。
 聖堂には一年前、教皇様の慈愛に満ちた笑顔や流暢な日本語に感動した信者、約2,000名が参列していた。
 その参列者に、里脇浅次郎枢機卿は、訪日された教皇様の旅は、巡礼、司牧、平和の使者が目的であった。私たちはその教訓を生かす為、内にこもる信仰でなく、外に向って活動する必要があると説教された。