5.総流配より帰郷後の窮乏

1)家のない人びと
 明治6年4月7日に到着した和歌山からの53人を先頭に、高知の居残り6人が8月7日に到着したのを最後に、1900人が浦上に帰った。
 3394人が浦上を出たのに、殉教者613人を出し、不幸にして1011人は苦難に堪えられず、信仰を捨てたけれども、帰郷後、その大部分は再び元の信仰に帰り、一度背教したことに対する償いをしていた。
 明治6年9月、第五大区(浦上山里村)戸長、米倉正芳の報告によれば、1900人のうち、「家あり」は1164人、残り 736人は「家なし」であった。前年に帰った改心者のなかにも、589人の「家なし」があったので、竹の久保官有林の木材を切り出し、キリシタンを公役につかって、35か所に掘立小屋を建てている。
 長崎県の調査報告(異宗一件第2号甲第20号)によれば、浦上山里村の総家数668戸のうち、319戸が貸渡し、26戸は、あき家となっている。貸渡しの分は返してもらうことができたが、あき家は壁は落ち、瓦ははがされ、建具も畳もなかったので、修理して雨露をしのぐことができた。
 その他、入札売払252戸、破却60戸、焼失8戸、合計320戸がある。この分はまったくの「家なし」であったから、また竹の久保の官有林から切り出した木材で、一人一坪当り3〜4軒つづきのバラック長屋を建てて、とにかく落ちつかせることになった。
 家財道具はほとんどなかった。長崎県の報告には、「空屋には釘付にし」とあったが、実施が遅れたために、いち早く盗難にあったのである。これらの盗難は坂本あたりからはじまって浦上一円に拡がり、遠くは本原郷一本木までおよんだと聞いている。
 およそ以上のような次第であったが、軒の傾いた破れ家、あるいは狭いバラック長屋ではあっても、キリシタンたちは、故郷に帰った喜び、それも信仰を守り通すことができた上に、「大声でオラショ(祈り)することができる」時世になったことが、何よりも嬉しいことだった。それは先祖七世代250年間待ちわびて来たものだったからである。しかし彼らの生活は貧しかった。

 2)食物の窮乏
 夏にかけて、夜具と衣類の心配が少ないのは救われた。しかし食物の窮乏はひどかった。一本木の音五郎の妻サダ(和歌山に流配)は、その回顧録のなかで、次のようにいっている。
 つぎからつぎに2000人もの人が旅から帰って来ましたが、食物はありません。その日から隣りの村や町に食物を買いに行きました。
「旅」から帰るとき、官から銀子をいくらかもらいましたので、それで買いました。けれども銀子は少ないので、安い食物を買わねばなりません。外海地方まで、カンコロ(切り干し芋)を買いに行きました。昨年もの(昨年干したもの)は高いので、3年カンコロを買いました。虫だらけでした。
 鍋も釜もないので、そのまま水にとかして食べました。虫が浮いて来ますが、いちいち虫を取りのける暇はありません。虫もいっしょに食べました。お椀も家族みんなにゆき渡らないので、欠け椀を拾って来て使っていました。
 さて、畑を耕して種をまかねばなりません。人が耕していたところはよいのですが、荒らしていたところは草が茫々と生えています。鎌も鍬もないので、手で草を取り、陶器のかけらで穴を掘って種を入れるのです。豆や大根の種子を入れました。芋の苗ツルが少しでも手に入れば嬉しいことでありました。
 夜が明けると畑に出て働き、日が暮れるまで働きました。土間の上り框に腰かけ、生のままのカンコロを水で流し込んで、そのまま、ごろっとねることもありました。
 着替えの着物も蒲団もまだ持ちませんでした。野草の食べられるものは採って来て食べました。けれども苦しいことはありませんでした。「旅」よりずっとよかったし、自由に働けて、そして大声でオラショすることができました。
 日曜日には、大浦天主堂の御ミサに行きました。一本木から2里(8km)ばかりありますが、少しも遠かったとは思いません。

 3)赤痢の流行と台風禍
 こうして一年過ぎた。そこばくの稔りが畑から収穫されるころ、ようやく生活も落ちついた。ところがその翌年、明治7年、人災、天災が折り重なって浦上を襲った。
 まずやってきたのは赤痢の流行である。「旅」から帰って一年、身体は弱っていた。衣食住のことごとくが悪かった。村人たちは、この疫病の流行に手のほどこしようがなかった。浦上だけでも210名の患者が出た。
 そこに天の救いのごとく現われたのが、フランス貴族出身の青年宣教師ド・ロ神父であった。
 フランス七月革命から10年後、二月革命に先だつこと8年、1840年3月27日、ド・ロ神父は生まれたのであったが、革命ごとに斜陽化していく貴族のみじめさを見てきた彼の父は、社会のどんな変転にも耐えられるように、多方面の知識と技術とを、その子に修得させ、不屈の精神を養わせたという。
 ド・ロ神父が身につけた印刷、農業、土木、医術、薬学、建築などの広い技能は、後に日本人のために、すこぶる有効に発揮されることになる。
 浦上村民の窮状を見たド・ロ神父は、毎朝一里あまりの道を薬箱を下げて浦上に通い、病人の診療投薬に従事しながら、予防措置を教えて廻った。患者の枕頭に坐して脈をみ、投薬するばかりでなく、心から患者を慰め励ました。「ド・ロ神父の薬はよく効く」というのは、後々まで語り草になった。
 明治7年8月21日、台風が襲来、長崎は大被害を受けた。昨年建てた浦上の急造のバラックは総倒れとなり、全戸数の半分は倒壊した。一年間辛苦の農作物は風に吹きちぎられ、水に流されて収穫は皆無となった。米価は暴騰した。浦上キリシタンたちの受難はつづく。
 赤痢に対する条件はますます悪くなった。それでも、この疫病を210名の患者でくいとめ、死者8名にとどめたのは一に、ド・ロ神父のお陰であった。
 しかし、ここにド・ロ神父の活動を助けた篤志看護婦たちの献身を忘れてはならない。ド・ロ神父が救護活動をはじめたのを見て、ただちにその案内と手伝い、患者の身廻りの世話を買って出たのは岩永マキであった。
 マキは愛の人であった。赤痢に悩む人びとを坐視するに忍びなかったのである。その精神はマキだけのものではなかった。マキが動いたのを見て、守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサ、という乙女たちが立ち上った。みな「旅」の辛酸をなめてきた、すぐれた乙女たちであった。
ド・ロ神父は毎夜大浦天主堂に帰った。マキらは家に帰れば家族に伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにした。高木仙右衛門が自分の小屋を提供した。

 4)十字会の設立
 明治初年の政治、社会不安のなかで生活苦に悩んでいた人びとの間に捨児がひんぴんと行われていた。合宿所でマキら乙女たちは、新しい天職に生涯をささげる決意を固めることになった。孤児養育の仕事である。
 この合宿は永久に解かれることはなかった。仙右衛門は、ついに自宅の土地建物一切をマキらに譲ってしまった。マキらは、ここを修道院として、本原郷のサワという婦人の家を買いとって、孤児院を開いた。
 孤児は多かったけれども食物は少なく、お金もなかった。仙右衛門の家も、わら屋根の狭い小屋だった。マキらは板の間にござを敷き、一枚の蒲団を交替で着て、わずかの睡眠をとった。冬の最中に、わらの上に体をくっつけあって暖まり、まどろんだこともあったという。

 芋と、しょう油滓(かす)が普通の食事であった。時に豆腐滓(おから)があればこの上ない御馳走だった。それで食器はほとんど必要でなかったし、ありもしなかった。汁椀が一つあった。時たまつくるミソ汁をそれで廻しのみした。
 孤児をやせさせてはならなかった。マキらの生活は、先にのべたように極度に貧しいものであったが、孤児のために働き続けた。
 こんどはド・ロ神父が精神的にも経済的にも援助の手を差しのべた。孤児院の経済的基礎を固めるため、私財を投じて田畑を買ってやった。これらの田畑が、ながい間孤児院のもっとも大きな経済源となり、終戦後、この地方(本原町)が住宅地化するまで、マキの後継者たちは営々として耕しつづけたのである。
 このような困窮とはげしい労働のなかで、最初の合宿以来、マキたちが精神的修練を怠らなかったことは感嘆すべきことである。赤痢の救護に従事していたころから、この合宿所は、ただの休息所ではなかった。

 ド・ロ神父は若い乙女たちの共同生活を敬虔なものにし、マキらの奉仕にいよいよ精神的価値を高めるために、祈りと宗教の勉強、黙想の時間割を定めてやり、暇を見ては指導を与えた。
 それは初代浦上小教区の主任司祭ポアリエ神父に引きつがれ、マキらの共同体は明治10年、準修道会となり、「十字会」と名づけられた。これは美しい人間愛の花として「自由浦上」の誇りとなった。

6.仮聖堂の建立

1)土井の聖堂
 浦上天主堂の歴史は明治12年(1879年)土井に設けられた「サンジュアン・バブチスタ小聖堂」に始まる。
 明治6年「旅」から帰った浦上の信者たちは、経済的にこそ言語に絶する困苦をなめていたものの、信仰の自由をかち得た精神的喜びは筆舌に尽くし難いところであった。しかしながら、「旅」に出る前に浦上にあった公現の聖マリア堂、公現の聖ヨゼフ堂、サンタ・クララ堂、聖フランシスコ・ザベリオ堂などの秘密の仮聖堂は破却されてしまっていたので、信者たちがミサにあづかり、秘蹟を授かったりするためには、大浦天主堂まで歩いて通わねばならなかった。その日の糧を得るのに汲々としている信者達にとっては、時間的にも甚だ困難を感じていた。
 「旅」から帰った土井の熱心な信者、相川忠右衛門は、大浦天主堂におられるポアリエ師(浦上の初代主任司祭)と相談して、仮聖堂の建立を計画した。
 適当な場所を物色した結果、船着場である土井ならば、大浦から神父様を迎えるのに船で上陸される場所であるので好都合だとして、忠右衛門の兄、友八の離座敷を仮聖堂にあてることとし、「洗者聖ヨハネ」に献げられた。その場所は、元三菱製鋼所の北端部で、現在、医師会館などがある付近の浦上川のそばに、川に背を見せて建てられてあった、瓦ぶき平家で、200人位収容される広さであった。
 しばらく大浦から神父様がここに通って来られたが、聖務が忙しくなるとともに、ポアリエ師がここに定住されることになり、ただでさえ狭い聖堂の一隅に、二畳敷の居間を仕切って住まわれた。この部屋に、机、家具、調度を置いてあり、香部屋と兼用の寝室は僅か一畳敷であった。
 この窮屈さを物ともせず、ポアリエ師は聖務に奔走されたが、最も繁忙を極めたのは、神父渡来前の洗礼で、用語の不備から洗礼の効果を疑がわれたので条件付再洗礼をすることであった。
 またこれら、多忙な中にあっても、教役者(聖職者)の養成ということに努められ、松尾萬蔵、池田秀穂の二少年を同居させておられた。松尾少年は神学生時代早世したが、池田少年は後に、立派に神父になり、浦上でも活動された。
 明治13年、庄屋高谷家屋敷に仮聖堂移転後は毎月の第一月曜日と、大祝日の翌日、および保護の聖人の祝日にミサが献げられるに留まったが、なお時折は、葬式、婚姻の秘蹟なども、ここで行われることがあった。
 明治30年、その頃、この小聖堂の建物の腐朽甚だしくなったので、宿老(顧問)会議の結果、取こわすことに決定したが、本原の高木仙右衛門老人は、これに反対し、信仰の記念物として保存するか、修理して持主の友八に返却するかすべしと主張した。仙右衛門の主張は容れられたが、保存するには余りにも腐朽が甚だしかったので、改造して返却することになった。しかし友八は一度献げたものを、と受け取らぬといったが、関係者の説得で取こわし、小住宅を建てて友八に返却した。

 2)庄屋、高谷家屋敷跡の仮聖堂
 土井の御堂は200人位しか収容できない、何とかして大浦天主堂に劣らぬ大聖堂を建立したいものだと、信者も宣教師も念願していると、意外にも無双の好敷地が手に入ることになった。それは庄屋、高谷家の屋敷である。
 浦上の庄屋、高谷家は、もともと肥後(熊本地方)の豪族で、戦国時代に家をつぶされ、浦上に落ちて来たものであったとか。
 村の中央高燥絶勝の地に邸宅を構え、代々庄屋を務めて、すこぶる巾をきかせ、キリシタンの召捕り、吟味のあるごとに自ら之に手傅い、毎年正月には村民を召出して絵踏みを実行させたものである。
 明治2年総流配の際にも村民をかり集め、それぞれに流配を申し渡したのも、ここであった。しかし、当主の官十郎は、キリシタンを流配に処して間もなく死亡した。長男は操行が修まらないので懲戒のため、高島炭坑に委托されているうち、ガス爆発で死亡した。
 旧幕府時代ならば、如何なる幼稚で常識のたりない子でも、親の跡目は立派に継げるのであったが、維新以来、世襲制は全く消滅し、村治(村のとりしきり)は適任者に托されることになった。
 世禄に離れた未亡人は、僅か12才の病児をかかえて新に生計を立て直さねばならなかった。一時は邸宅の周囲に、こんもりと茂れる樹木を伐り払って糊口の料にあてたが、それとても無尽蔵ではない。ついに敷地から邸宅まで残らず競売にして村を立退くことになった。

 浦上の信者たちは、何とかしてこの絶好の敷地を手に入れようと油断なく運動し、ついに明治13年(1880年)6月4日、わが主聖心の祝日に売買契約の調印を終った。価格は僅か1600円であった。・・・・・・当時の米価は一俵(60kg)2円64銭(1升66銭)。
 そして7月7日、日本205人殉教者の祝日から、その家の修築に着手して仮聖堂に直し、8月15日聖母被昇天の祝日に初ミサが行われた。信者たちの喜びが察せられる。しかもここは、「コンチリサンのオラショ」(痛悔の祈)をとなえながら、心ならずも絵踏みをした忘れられない場所であった。
 この仮聖堂は本聖堂建設のため、1902年(明治35年)に聖堂裏手の東側に移築され、本聖堂完成の1914年(大正3年)まで仮聖堂として用い続けた。その後は教理教室として使用していたが、原爆で焼失した。

7.十字架山参詣地設立

 十字架山と呼ばれるこの丘は、明治14年(1881年)浦上小教区の第2代主任司祭プトー神父の勧めにより、流配から帰った信者たちによって設立された。それには二つの理由があった。
 @ 禁教時代の絵踏みの償い。
 A 迫害が終ったことを感謝して、信仰を公に表明する。
 明治6年「旅」から帰った浦上のキリシタンたちの心には、信仰を完うし得た喜びの中に、一つの哀しみがあった。「絵踏」の思い出の哀しみである。
 江戸幕府のキリシタン弾庄下に、心ならずも行い続けてきた「絵踏」の罪の重さを知った時、父祖たちの苦悩は深かった。「償わねばならない」と真剣に考えていたのである。
 プトー神父は、信者たちのこの心をよく知っていたので、キリスト御受難のカルワリオの丘に似た「この丘に十字架を建て、償いと感謝の聖地にしよう」と提案した。
 信者たちは争って労働奉仕に出た。4尺(120cm)角の台石は、全村から選び出された屈強の男たちが、7日間を費して石神の石切揚から頂上に運び上げた。村人全員の協力奉仕の真心を表わすためであったと伝え聞く。

 三段の礎石の上に丈余の木製十字架が建てられて、9月14日、十字架称賛の祝日をもって設立の日とし、父祖たちは、この十字架の下でよく祈った。
 大正12年(1923年)8月、築造から50有余年の風雨にさらされ、腐朽した木製の大十字架を石造りに改修した。昭和20年(1945年)の原爆により被災したが現在の十字架の姿に修復された。
 昭和25年(1950年)当時の教区長・山口愛次郎司教がローマ訪問を機に、教皇ピオ12世により、十字架山は西坂と並ぶ長崎の公式巡礼地に指定された。それ以来、今日まで栄誉ある祖先の遺徳を偲ぶ聖地として巡礼者が絶えることはない。
 昭和27年(1952年)十字架山設立70周年にあたり、頂上の領域を拡張し、上り坂の参詣道の両側に、「十字架の道行14留」の木標14本を建てて、日本最初の屋外道行を実施した。
 昭和56年(1981年)領域の整備と、1〜14留の道行の十字架(鉄製)が頂上の領域の周囲に建てられ、100周年記念事業として立派に整備された。