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昭和21年11月、浦上の信者たちは、焼トタンの仮小屋に住みながら、「神の家」である仮聖堂を作った。 しかしながら、由緒ある浦上天主堂の再建、これは信者たちが夢寝のうちにも忘れ得ぬところであった。 戦争も原爆も、総ては人間のしわぎであり、私たち人類の過失であった。私たちの過ちによって廃墟となった天主堂を、一日も早く再建して、人間に真の幸福をもたらすような平和な世界を作るように努めねばならない。 すでに仮聖堂は、復員者、引揚者、転入者によってふくれ上った5,000人の信者を収容するには余りにも狭く、早くから本聖堂再建の必要にせまられていた。 1)再建委員会
さて、この工費をどのようにして集めるか、委員会で検討した結果、信者が醵金し得るのは3,000万円(1戸当り3万円)が限度であろうということであった。 しかし、一回に出すのはとても無理だということで、一応毎月300円を3年間積立てることになった。 そして浦上出身で、他県で活躍しておられる有志の方々をはじめ、一般の篤志家に対しても、「浦上天主堂再建趣意書」を発送して浄財を集めることになった。 2)再建資金募金のため山口愛次郎司教渡米 信者の醵金だけでは再建は無理と、御推察になった山口愛次郎司教はアメリカに渡り、募金に努めて下さった。 私たちの軽卒な考えでは、アメリカは金持ちだから、原爆で倒壊した浦上天主堂の再建資金だと司教様が頼んで下されば、数千万円の寄付金はボンと出してもらえるものと思いがちであるが、実際はそんなやさしいことではできず、司教様は大変な御苦 労を6ケ月にわたってアメリカ各地で続けて下さって、多額の寄付を集め、昭和30年2月11日に帰国されたのである。 浦上天主堂の再建は、山口愛次郎司教様に負うところが極めて大きかったことを信者一同忘れてはなるまい。 3)再建説明会 いろいろの困難を克服し、ようやく再建のめどがついた昭和33年2月23日、山口愛次郎司教は浦上の信者一同を信愛幼稚園の講堂に集め、再建要領について説明された。 その概要は次の通りであった。 ○天主堂の形態については、いろいろの構想が寄せられたが、浦上天主堂は再建である。再建とは、元のように建てること。こういう考えにもとづいて、原爆前の天主堂をモデルとして再建したい。 ○いま鉄材が一番安価である。鉄骨コンクリート造りで柱なしの天主堂にするよう天井の強度計算を含めて設計中である。鉄材が安いうちに早急に着工したい。 信者一同異議なく、待望の天主堂再建がはじまることになった。 4)天主堂廃墟の撤去問題 原爆で倒壊した天主堂の廃墟は、昭和24年のザビエル祭までに、きれいに整理されたのであるが、長崎市原爆資料保存委員会などの要望もあって、正面右側と右側面の一部側壁(ザビエル祭の祭壇になった)だけが残されていた。 天主堂の再建着工を知った原爆資料保存委員会では、小教区当局に対して天主堂の廃墟は唯一貴重な原爆資料なので、是非保存してくれと強い要望をしてきた。 教会としては、山口愛次郎司教を中心に慎重に検討した結果、原爆前と同じ天主堂を再建するためには、廃墟を撤去しなければ建てられないので、廃墟保存の趣旨はよくわかるが、撤去はやむを得ないとの結論になった。 保存委員会では、平和公園との換地などの話を持出して廃墟保存を申し入れて来たが、天主堂敷地は庄屋の屋敷跡として、禁教迫害時代からの由緒あるところなので、換地には応じられなかった。 そこで、側壁の一部廃墟を原爆中心地に移設することにしたのである。 5)浦上天主堂再建・聖別 主任司祭中島万利師を中心に、信者たちの積立金や応分の献金、県外浦上出身有志の寄付などの募金活動は順調にすすめられた。 特に感謝にたえなかったのは、貧しく年老いた未亡人たちが、老後のために貯金していた金を「神さまのために」といって率先して献金したこと、信者でない篤志の人人の寄付などであった。 こうして鉄川工務店の設計・施工で、昭和33年3月に着工し、工事は順調に進捗した。そして1年半後の昭和34年10月完成し、11月1日、教皇公使フルステンベルグ大司教によって聖別された。 山口愛次郎大司教、深堀仙右衛門福岡司教、松岡孫四郎名古屋教区長、イエズス会アルペ管区長をはじめ、諸修道会や、パリ外国宣教会のドルエ九州地区長など、多数 の高位聖職者や信者たち、来賓など3,000人が聖別式に与かって、よろこびを分かち合った。 再建された新天主堂は建坪1,679u(509坪)で、旧天主堂より515u(156坪)広く、中央祭壇には聖パウロ三木、聖ヨハネ宗庵、聖ヤコボ喜斉殉教者の遺骨が納められ、両脇祭壇には聖パウロ三木と聖ヤコボ喜斉と、その他1名ずつの殉教者の遺骨が納められている。 |