11.原 爆 被 災

 昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、浦上の松山町上空500mで炸裂した原子爆弾は、浦上を焼土と化した。

 浦上を焼土と化した原子爆弾の炸裂

 この日、浦上天主堂では毎年のならわしによって、大祝日の前には地区ごとに日をきめて告解の秘跡が行われていた。聖母被昇天の大祝日の準備の告解のために主任司祭西田三郎師は聖堂に入ろうとし、助任司祭玉屋房吉師は告解場に入っておられた。
 その日は数十人の信者が天主堂内にいたと思われる。そして爆風で天主堂は倒壊し、2人の神父も信者たちも即死した。倒壊した天主堂には火がつき炎上した。

1)被災状況
 被災状況は、次頁の写真で一目瞭然である。一部側壁を残すのみで全壊である。正面上部の右塔は真下に落下して破壊し、左塔は天主堂左下の川の中にほとんど壊れず落下している。
 正面入口のアーチ部分は亀裂甚だしく、間もなく引き倒した。この時、十字架は破損してしまったが、両側の聖マリアと聖ヨハネの石像は無傷で残り、現在の再建天主堂正面にはめこまれている。
 その他の各側壁も亀裂甚だしく、正面右側入口部分を残して全部引き倒した。(右側の側面、女子入口部のみは、昭和24年のザベリオ400年祭まで残していた。)
 天主堂の倒壊で壁面に装着されていた84の天使像、33の獅子石像、14の聖人石像のほとんどが大破し、20余の天使像と2〜3個の獅子、3体の聖人石像が残っている。
 残った石像の内、天使像17体と聖マリア、聖ヨハネの石像は、再建整備された現在の天主堂正面に装着されており、別に聖アグネス像は国連の平和展示物として展示された。
 二つの鐘は大鐘はほとんど無傷で、現在も再建天主堂の右塔で鳴り続けているが、小鐘は大破し、その破片は司祭館3階の資料室に展示されている。

参列者全員が悲しみのうちに行われた合同慰霊祭

2)被災後のミサ
 8月9日に被災してからは信者の大部分が死んでしまい、僅かに残った信者は失意のうちにも焼跡の整理や、仮住い(犬小屋の少し大きいようなバラック)の準備、食糧探しなどに忙殺されていた。
 天主堂は倒壊したので、ミサにも行けないと思っていたところ、9月になったある日、聖フランシスコ病院の焼跡でミサがある、との情報が伝えられて来た。
 聖フランシスコ病院一階の修道士食堂になっていた20坪の一室が、コンクリート天井も外壁も残っていたので、この部屋を浦上の仮聖堂として御聖体が安置された。10月になると、疎開していた信者や復員、引揚者などでとても入りきれなくなったので、南側の半地下室(神学校雨天体操場)に仮聖堂を移し、日曜日のミサが行われるようになった。
 なお日曜日以外の普通の日のミサは、信愛幼稚園の修道院の焼跡でも9月中旬より主任司祭山川清師によって行われていた。

3)被爆死者合同慰霊祭
 昭和20年11月23日、浦上天主堂の廃墟の前(現在の信徒会館のところ)で合同慰霊祭が行われた。
 生き残りの信者約600名が参列し、浦川和三郎司教司式の死者のミサがおごそかに行われ、司教様は追悼説教の中で、 私たちの親、兄弟、夫、妻、子供、友人、みんな良い人たちが一発の原爆によって神に召されていきました。
 そして浦上はこのような焼野原になりました。明治6年に「旅」から帰って来た時は、「あばら家」でしたが、浦上に家が残っていましたが、今は一軒の家もありません。……
 この追悼説教に参列者全員声をあげて泣いた。
 またミサ後、永井隆博士は原子病の体にポロ服をまとい、声涙あふれる弔辞を読みあげられ、参列者一同は涙を流して慟哭した。